二人で夜に沈みたい

 鼓膜に滑り込んでくるのは、そよ風で木の葉が擦れる音と和やかな梟の歌声くらい。ひどく静かで穏やかな夜が、あたりをすっかり染めている。

「……なんだか、今日はいつもと逆だね。普段は僕が君を呼び止めることが多かったから」
「そうね……確かに私、ずっと受け身だったもの」

 あの夜の一件から数日後。私はアッシュに声をかけ、二人きりの時間を過ごしている。士官学校から大修道院へと繋がる連絡橋での、ちょっとした逢瀬だ。

「君が受け身というよりは、ただ僕がお節介なだけだと思うけど……。……ごめんね。君のことは、なんだかとても気がかりで」
「とんでもないわ。あなたがいてくれて、私、とても救われているもの」

 宵闇に包まれた世界は静寂一色で、耳障りな雑音などありはしない。戦争真っ只中とは思えないくらいのしっとりした時間が、私たちの間に横たわっている。
 さら、さら。木の葉の擦れる音がする。心地よいそれは度重なる戦いで荒んだ心を冷やしてくれるようで、アッシュという存在の安心感もあってか、場違いにも眠気が襲ってきそうになった。

「……私ね。あなたに訊きたいことがあるの」

 眠気を振り払うごとく、単刀直入に切り出す。並び立ち夜空を見るアッシュはほんの一瞬気配をざわつかせたが、すぐにいつもどおりの柔和なそれを取り戻す。
 なあに、と言わせる前に、私は再び口を開いた。

「私、不思議で仕方なかった。どうしてあなたはこんなにも私のことを気にかけてくれるんだろう、どうして、ここまで親身になって接してくれるんだろう、って」
「そんなの当たり前だよ。だって、僕たちは青獅子の学級で一緒に過ごした学友じゃないか。大切な友だちなんだから、気にかけるのは当然じゃない?」
「でも、それだけじゃあないでしょう? 私にだってそれくらいはわかるのよ。あなたの優しさには、学友ってだけじゃない、もっと別の理由があるはずだ、って」

 途端、アッシュは息を呑んだ。その小さな呼吸の音すらまっすぐ聞こえてきてしまうくらいの、水面のような空気がここにある。私がついぞ味わったことのない、ひどく静謐な空気。
 ああ、だからこんなにも性急に話を進めてしまうのだろうか。神秘を感じるほどに澄み渡っている様相など、私の人生にはちっとも組み込まれてこなかったから。
 ガスパールでいた頃にもこれくらい静かな家で過ごしていたけれど、しかし、あの頃の私の心を占めていたのは“静寂”ではなく“空っぽ”だ。ひどく似て非なるその感情。かつては名前も知らなかったそれに、私は今になってやっと名前をつけることができる。
 そして、その段差に気づいてしまったからこそ、その静けさが心の隙間にぐっと滑り込んでくるようで、とても痛くて、怖いのだ。
 私のただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろうか、アッシュは何か決意したようにこちらを向いて、まっすぐな目で私を見る。その双眸はひどく真摯で、直向きで、優しくて――私はそれに、これまでの比じゃないくらいの既視感をおぼえた。

「……そう、だよね。黙ってばかりもよくないか」

 私は、アッシュの唇の動きを追う。彼が今から何を言うのか、どんな言葉を私に突きつけてくるのか――怖さ半分、期待半分といったところだろうか。

「結論から言うね。僕は、君のことを……『ウィノナ=ガニエ』を知っている」

 案の定、と言うべきか。アッシュの告白は私にとってとても意外であり、予想通りでもあった。

 
 僕と君の「はじめまして」は、入学式じゃなかったんだ――アッシュの簡潔な物言いは、何の抵抗もなくすんなりと染み込んでくる。

「本当はね、ひと目見たときから君だって思ってた。もしかしてあのウィノナなのかなって。こんな偶然あるわけないって思いながらも、女神様の思し召しに感謝したよ。……面と向かって口にすると、ちょっと恥ずかしいけどね」

 少し照れくさそうに肩をすくめながらも、アッシュは穏やかに吐露を続けた。どこか吹っ切れたのだろうか、彼の言葉はするすると、滑るように発せられる。

「でも、久しぶりに見た君はあの頃と全然雰囲気が違ったし……今にも消えそうなくらい存在感を殺しているように見えたから、なんとなく声をかけるのが憚られてしまって」

 言いながら、アッシュは静かに目を伏せる。目的のために履行していた“演技”が、よもや傍目からそんなふうに見えていたなんて――私にとってはこれこそ予想外だ。
 もしかするとオフェリー家での生活がそこに表れていたのかもしれないなと、彼の話を聞く傍らでつい考え込んでしまった。どうやら、あの家はどこまでも私の邪魔をしてくるらしい。

「それに、僕はロナート様に拾われてから、いっさい君に会いに行けないままだったから。もしかすると嫌われてしまったかもしれないなとか、僕の顔なんて見たくないなんて思われてるのかも、とか……色々考えちゃって、昔の話を振る勇気もなかったんだよね」
「……実際、いくら話してみても私には響いてるふうじゃなかったでしょうし」
「そう、だね。……というか、今もそうなんじゃないかな、と思ってるよ」

 再び開かれたアッシュの瞳。二つのくさび石が月の光をいくつも反射して、ひどく鮮やかに煌めいている。きら、きら、星よりも眩しい光を目に入れた途端、私の心臓は大きく音を立てて跳ねた。
 ――私は、この目を知っている。そう知覚した瞬間に、胸の奥で何かが弾けた。
 嗚呼――私は、この瞳に覚えがある。何度も見て、何度も焦がれた。何度も何度も、夢に見た。胸の奥にずっと残っていた光。陽だまりの向こう側にあったそれは、私が長く求めてやまなかった“それ”そのものだ――

「でも僕は、君があのウィノナなんだって信じてる。君がブレーダッドの小紋章を宿していたことや、殿下のお姉さんだったってことには驚いたけど……幸いにもその“血”が、僕に確信をくれたから」

 アッシュの声が、どこか遠くに聞こえている。
 ――否、離れているのは彼の声でなく私の意識のほうで、じくじくと蝕むような頭痛とともに、私は在りし日に記憶を逆行させていた。目の前の景色と過去の記憶が混濁して、強い眩暈と吐き気に襲われる。足元もぐらぐらに揺らいで、もう少しすれば立っていられなくなりそうなほど。
 そんな私を知ってか知らずか、アッシュは私の手に手を重ねて、祈るような素振りを見せる。――途端、モヤのかかっていたいっさいが晴れ渡るような感覚が、戸惑うばかりの私を襲った。
 蓋をしたまま奥の奥に押し込められていたすべてが解き放たれて、私はまるで数年来の目覚めを迎えたような心地になる。視界の裏側に至るまでが澄み渡り、ぼんやりした世界が一気に虹色を帯びて、私の五感に鋭く突き刺さった。
 目の前にいるアッシュが、ひどくきらきらと輝いていて――どんな宝石も霞むくらい、今のアッシュは眩しかった。否、そう見えてしまった。
 突如変貌した世界の衝撃。それがあまりにも大きすぎて、私は思わず咳き込んでへたり込む。突然ふらついた私を支えようと、アッシュは目線を合わせるように屈んでくれた。
 気遣わしげなその顔を見ると、言いようのない安心感と懐かしさが私を覆い――私は考えるよりも先に、その名前を口にしていた。

「あ……アッシュ……?」

 しかし反射的に出たその言葉は、まるでおのれの口から発せられたとは思えないくらい、ひどく幼い響きをしている。

「えっ――ウィノナ、もしかして……!?」

 そして、自分でも戸惑うほどに拙いそれが、アッシュにいっとう確信をもたらしたようだった。彼はほんの一瞬だけ動きを止めたものの、すぐに陽だまりよりも優しい笑みを浮かべる。
 途端、「その顔が見たかった」なんてかつての願いまで蘇ってきて、私は耐えられずにほろほろと涙を溢れさせてしまった。

「あ――わ、私。ごめ、なさい、ど、して、こんな――っ」

 涙の次に溢れてきたのは、ひどく狼狽えた謝罪の言葉だ。
 しどろもどろな私の背中をさすりながらも、アッシュは大丈夫だよと、謝る必要なんてないと優しい言葉をかけてくれる。
 ……本当に、本当に優しい人。陽だまりのようにあたたかくて、微睡みのような安らぎを与えてくれる、私にとっての無二の光。
 私はいっさいの均衡を失ったまま、思うままに言葉を吐く。濁流のように溢れてくるそれを吐き出さないと、感情のすべてに殺されてしまいそうでひどく恐ろしかったからだ。

「私……ああ、そう、そうだわ。……私ね、あなたが会いに来てくれなくなってから、とても淋しくて、悔しかったの。どうして私は外に出れないんだろう、会いに行けない自分が恨めしい、って、そんなことばかり考えてた」
「それは、ッ……、本当に、ごめんね。僕が一度でも君に会いに行けていれば、少しは変わったろうに」
「あ……いいえ。謝らないで。本当にね、あなたは何にも悪くないのだから」

 私は、緩慢に首を横に振る。記憶の波に飲まれたせいで、すばやい動きができなくなっていた。

「ええと……それでね。私、どうしてもあなたに会いたくて、母に頼んで一度だけ外に出たことがあったのよ」
「えっ――それまで、ほとんど出してもらえなかったのに……?」
「そう、なの。……不思議よね、頼めばすぐに出してもらえたのよ。……それで、そのときにロナート卿と一緒に歩くあなたを見たわ。あなたはとても幸せそうだっから、私、『よかった』って思ったの。でも、なぜか同じくらい、苦しくて――」

 当時の辛苦を思い出して、再び涙が頬を伝う。胸の奥が焼けてしまいそうなくらいの苦痛。その出どころや意味も、今の私には、ちゃんとわかる。
 私にとってのアッシュが、あの頃からずっと一番で大切な人だっただけだ。誰よりも何よりも大好きで、まるで柱のように、私の世界の中心だった人。彼という陽だまりがあったからこそ、私はなんとか自分を保って、変わらず過ごせていたのだと思う。
 当時の私は――もしかすると今もそうなのかもしれないけれど――情けないほどアッシュに寄りかかった、危うい精神をしていたのだろう。

「情けない話、だけれど……私、あなたのことをすべての支えのようにしていたから、あなたに会えないことが耐えられなかったんだわ。……もちろんあなたを責めるつもりはなくて、ただ、私の弱さが招いただけのこと、なのだけれど」

 アッシュは何も言わない。ただ痛ましく、悲痛なふうにくちびるを噛みしめて、私の話を聞いてくれている。

「私には、忘れるという選択肢しか残されてなかったの。私ではあなたの為にならないし、あなたを助けてあげられない。ロナート卿のように、あなたをすっかり救いあげることなんて無理だとわかっていたわ。だから――」

 あなたの幸せを願う私は、あなたのいっさいを忘れることで、弱い自分を守ろうとしてしまったの。
 

 私のみっともない吐露から、果たしてどれくらいの時間がたったのだろう。
 夜空では大きな月とそれを取り囲む星々が柔和な笑みを浮かべるまま。優しい星空は私を嘲笑うこともなく、静かに見守ってくれていた。
 梟の歌声も相変わらず木霊していて、静謐な空気はいっさい穢れることなくそこに在る。ただ、私の心持ちが少し変わってしまったくらい。
 横たわる気まずい沈黙に寝返りを打たせたのは、沈黙に耐えられぬ意気地のない私――では、なかった。

「――ごめんね、ウィノナ」

 アッシュが開口一番に告げたのは、沈痛な謝罪の言葉である。……私は、そんなことを言わせたかったわけではないのに。
 私がさっと顔を上げると、アッシュは申し訳なさそうに微笑んだ顔のまま、続ける。

「やっぱり、会いに行けばよかった。急な環境の変化でそんな暇も余裕もなかった、なんて言い訳してないでさ。一度でも君に会っていれば、こんなことにはならなかったのにね」

 いわく、アッシュにも後悔や自責の種がいくつも残っているらしい。
 ……アッシュは色々を打ち明けて、包み隠さず話してくれた。忙しさにかまけて私の元を訪ねられなかったこと、何も伝えられずにいたこと。“できなかった”ことばかりを、何年もずっと悔やんでいたこと。
 いつも心のなかに私を置いていてくれたこと。反面、ロナート卿や義兄、弟妹との幸せな日々に溺れて、時おり私のことを隅に追いやってしまっていたかもしれないこと。
 そして――これからはその後悔のぶんも共に過ごして、少しでも空白の月日を取り返すと誓うこと。

「こんなことくらいで、僕らの間にあるすれ違いのすべてが解消できるとは思ってないけれど――それでも、今度こそたくさん一緒にいたい。あの頃より自由になった僕で、君のとなりにいさせてほしいんだ」

 
2022/09/22