03

 あたたかい感触がする。額を優しく撫でる手のひらはピエリスの傷ついた心身をゆっくりと癒やすようで、その柔らかくも厚いぬくもりに、夢現の狭間で胸の奥をじんわりと揺らした。
 この手の主は誰だ――? ビッケのそれとはまた違う柔らかさをした肌は、ほんの一瞬リーリエのことを過ぎらせるものであったけれど……しかし、今ここに彼女がいるはずもなかった。今日は確か友人たちとメレメレじまへ出かけているはずだし、何より彼女にしては少し硬い感触である気がする。ルザミーネはわざわざこんなところへ来るわけもなし、仮にセロシアが見に来たとして、よもやこんなふうに触れてくるとは思えなかった。他の可能性をどれだけ手繰ってみても、いま額に感じる手のひらと合致するものは一切見つけられない。
 結局確信らしいものを得られないまま、ピエリスはまどろむように目を開ける。ぼんやりとした世界のなか、目の前にあるのはゆっくり鮮明になっていく金と黒のシルエット。
 懐かしい、けれども恐ろしいようなそれはやがてはっきりとした形をもって視界に映し出される。その正体は今絶対に考えてはいけなかった、「もしも」を考えることすらしなかった人の――ピエリスがずっとずっと愛してやまない、グラジオ本人であった。
 途端、まるで息を吹き返したかのように心臓がどくりと脈を打つ。全身から汗が吹き出す感覚とともに襲い来るのは高揚や悪寒や吐き気や疲労――ずっと麻痺していた神経が一気に回路を繋いだようで、ピエリスはもはや自分が自分でないような気持ちにまで至ってしまった。
 会いたくて会いたくてたまらなかった。恋しさに胸が張り裂けそうだった。グラジオさま、グラジオさま、ようやっと会えた彼を前にその名を飽くほど呼びたくなるけれど、この乾いた喉は張りついていてまったく声を出してくれない。見開いた瞳以外は腕も足も自由が効かず、ようやっと会えたというにこの不自由な体は彼との接触を許してくれないようだった。
 そこまでの不調を感じて気がついたのだ、ああ、きっとこれは夢なのだと。よもやグラジオがこんなところにいるはずもない。彼は武者修行のためにカントー地方へと赴いていて、今頃はもしかするとホウエン地方か、名前すら見たこともない遠方まで足を伸ばしているかもしれないのに、どうしてこんなところに彼のすがたがあると思うのか。
 今ここに――エーテルパラダイスにグラジオがいるわけはない。いま目の前で優しく微笑んでいる彼はきっと、疲れきってすれた心が映し出しただけの、憐れでどうしようもない夢なのだ。
 そう思うと心は痛みと安心感を伴う。ここにいる彼は幻なのだという鈍い痛みと、だからこそ何を言っても許されるかもしれないという安堵。いつもならたとえ夢でもわざわざみっともない姿を晒すことはしない――不可抗力は除いて――と思うけれど、そんな矜持も崩れ去るほど今のピエリスは参っていた。
 たとえ、これが虚しい夢だったとしても。今は目に映るグラジオに、ひたすら縋っていたかった。
「……らじお、さま」
 憎たらしい喉もいつの間にやら動くようになっていて、その都合の良さもまた、これが夢であるという自覚を強くした。
 掠れた声で名前を呼ぶと、グラジオはきゅっと眉間にシワを寄せてうつむく。そんな顔をさせたくて名を呼んだわけではないのに、ああ、此度の彼は本物に近い、ひどく優しい彼らしい。
「……すまない。オマエがこれほど滅入っているとは、オレも思っていなかった」
 申し訳なさそうに目を伏せるグラジオの、男の子にしては長いまつげを思って胸が締めつけられる。
 これは夢だ、夢なのだ。夢だから彼は偽物で、別に自分は彼のことを傷つけているわけじゃない。みっともないところを見られているのも、彼に心配をかけてしまったのもすべて幻で本当じゃない。
 おのれに言い聞かせるように念じてみると、不思議と素直になれる気がする。理性も矜持も投げ棄ててやった刹那、ピエリスからあふれてきたのは誰に伝えられることもないと思っていた本音と……頬を伝う涙だった。
「さみしかった……です。グラジオさま。わたしも……わたしも、あなたと一緒に行きたかった。あなたのおそばに、ずっと、いたかったのに……」
 かすれた喉が吐き出したはひどく弱々しい声で、その声色がピエリスの痛みをこれでもかと表している。
 いつもの悪夢ならこのままグラジオになじられたり見放されたり、また「怖い人」が出てきたりもするのだけれど、なんとなく今日は大丈夫な気がした。悪夢によくある暗闇もここにはなくて、むしろピエリスの記憶そのままの真っ白な救護室であったから。
 案の定グラジオはピエリスに強い言葉をなげつけることもなく、ただひたすら痛ましそうにその両の目を伏せるのみだ。
「ああ……ああ、そうだな。オレはどうしても叶えたい夢や見栄に固執して、本当に想うべきオマエのことを蔑ろにしてしまったのかもしれない。……すまない、本当に」
 グラジオの手は額からピエリスの手へと移り、いくらか痩せたそれを優しく握ってみせた。
 記憶にある感触とはいささか違っていたのだろうか、また少し眉間のシワを濃くしたグラジオは、重いため息を吐きながら空いた手をおのれのポケットへ伸ばす。がさがさ、ごそり、迷うようにポケットをあさる手。少し視線を上に向けるとグラジオが照れるような顔をしているのがわかって、ピエリスは枕のうえでこてんと首を傾げた。
 ――枕。そうだ、なぜ自分は未だ横になっているのだろう。いくら夢の中とはいえ、目の前にグラジオがいてくれるのになぜ従者の自分がこんなふうにだらけているのか。これでは世話係失格だと体を起こそうとするも、それは思ったよりも積もっていた疲労と、わっと飛んできたグラジオの両手によって簡単に阻止されてしまった。まだまだ万全ではないのだからちゃんと寝ていろ、そう言うグラジオは昔と変わらぬ顔をしていて、ピエリスの肩を押さえる手には今しがた取り出したらしい小箱が納められている。普段からモンスターボールを扱っているせいかもしれないが、小物を指数本で挟みつつまた別のことをする、という器用かつ少し下品な動作も、なぜだかグラジオがやると様になっているから不思議だ。
 こほん、グラジオはひとつ咳払いをする。やがてその小箱をピエリスに見せながら開くと、中にちょこんと収まっていたのはグラジオと同じ形のイヤーカフだ。シルバーのそれは彼が好む服の系統にぴったりで、斜め後ろから彼を見るときたびたび目に入れていた、好きなところのひとつだった。
 小箱をピエリスの手のひらの上に置いたグラジオは、「本当ならもう少し機を見ようと思っていたんだが」と言って、じっとピエリスの目を見つめている。相変わらずの強い意志を感じさせるような、けれども少し惑うような瞳。なんとなくの恐怖と湧き上がる愛おしさを感じ、ピエリスはとうとうその双眸から目が離せなくなった。
 グラジオさま、と名を呼ぶ前に、再びグラジオが口を開く。
「伝えたいことがある、と言っていたのを覚えているか。ここを出る前のことだ」
 ピエリスはこくん、と頷く。忘れるわけがないだろうに。グラジオから紡ぎだされる言葉のひとつひとつがピエリスという人間を形作っているのだから、それを忘却するということは命を削るも同義である。
 だからこそ恐ろしかった。グラジオが自分のもとを去ってゆき、縋るべき思い出が少しずつ風化していくこと。グラジオの声を思い出せなくなること。彼の体温を、忘れること。彼の欠片をなくしてしまうことを、ピエリスは何よりも恐れていたのだ。
「オレは強くなりたかった。リーリエや母さんを……皆を守るために、誰よりも強くなる必要があった。オレは男だからな、父さんがここにいない今、皆を守れるのはオレだけかもしれないと思っていたんだ。困ったことに、この世界にはオレより強い存在がごまんといるからな」
 自嘲気味に笑うグラジオが思い返しているのは誰なのか。少し前ならかつて切磋琢磨したライバルたちだと確信を得られたはずなのに、ここよりも広い世界を見てきた彼は、きっとピエリスの知らない「何か」を知ってしまっている。かつての彼の境遇を思えば非常に喜ばしいことであるはずなのに、それを心から喜べない自分に嫌悪が募るのを隠して、ピエリスは努めて静かな声を出す。
「……承知、しております。グラジオさま、ずっとそうおっしゃっていましたから」
「ああ。それに、オレにとってはオマエだって超えるべき壁のひとつだった。情けない話、オレは今までオマエに勝てたことがないからな」
「それは……その、わたしにも、島めぐりチャンピオンとしてのプライドがございますし。あなたを鍛えるという名目でのバトルが常でしたから」
「フッ……その通りだ。オレは、オマエのことだって守れる男になりたかったのに、な」
 ほんのりと頬を染めながら言うグラジオ。ごくり、小さく喉を鳴らす様子から彼の緊張のほどがうかがい知れて、ピエリス自身も少しだけ心が浮くような心地になる。
 けれどもそれを言葉にすることはせず、ピエリスはじっと彼の顔を見上げながら言葉を待った。急かすような真似だけはしたくなかったから。
「このアローラを飛び出して、武者修行を経て……そしてオレは強くなった。少しだけだがな。だから今度、オマエが元気になったら本気のバトルをしてほしい。そうしてオレが勝ったら、聞いてほしい話がある」
 澄んだ緑の瞳はひたすらまっすぐにピエリスを見つめていて、よもやこれが夢だとは思えないほどの実感に満ちている。グラジオさま、ピエリスがそう呼ぶと、グラジオはなんだ、と答えをくれた。
 たとえ夢であったとしても、この何気ないやり取りはじんわりとピエリスの心を癒やす。ぽとん、ことん、音を立てて胸の奥に溜まるものがある。再び握られた手のひらを握り返すと、グラジオは少し面食らいつつも手を握り返し、微笑んでくれた。
「わたし、絶対に手加減しませんからね」
 ピエリスがそう言うと、グラジオは困ったように眉を下げて頷いた。

 
20201030