02

 結局グラジオの見送りにも顔を出せないまま、ピエリスは切迫とした日々を過ごしていた。旅立ちから早数ヶ月、彼が居なくても世界は変わらず進んでいき、きっとどこかでは息もつかせぬような日々が流れているのだろうと思う。
 かつてのような空っぽの毎日。グラジオが居ないこと、否、彼の近くに居られないことが、まるで出刃包丁のようにじくじくとピエリスの精神を蝕んでは痛めつけてゆく。
 ピエリスの世界はグラジオが中心だった。彼がいるから生きてゆけたし、彼という人間が居てくれるから「ピエリス」という個人のかたちが出来ていたのだ。グラジオの吐息や鼓動がそこにある、怒ったり泣いたりはしゃいだりといった生命の挙動を感じられる、それだけで少しずつおのれというものが構築されてくる。そこに彼女の価値と理由があり、意義があり、そうやって七年という決して短くない時を過ごした。
 彼がいるから強くなれる――彼がいるから立っていられる。彼がいるから、そこに自分が存在できる。ピエリスにとってのグラジオは、何者にも代えがたい、決して代えられない「すべて」であった。
 けれどもその支柱を遠く離れた場所にやられて、今の彼女はボロボロの、外枠ばかりの虚ろな存在と化している。伸びたゴムは戻らないし、壊れたおもちゃは直らない。「空っぽの#本名#」にはもう戻れない。空虚な穴に満ちるのはあたたかい彼ではなくて、悲しみや戸惑いといった蝕むような負の思いばかりだ。
 彼のいない空虚を感じるのが怖くて一層仕事に打ち込むようになったのだけれど、世話係という役職が名前ばかりとなった今、出来ることは実のところ本当にたかが知れている。バトルの腕を利用してルザミーネや要人の警護についたり――それもレインボーロケット団の前では無力だったのだけれど――、以前と変わらないまま保護区のポケモンを世話したり、はたまたしたっぱ職員がやるような雑用を申し出たり。
 やれることがあるならどこへだって馳せ参じた。それは力仕事から書類整理に至るまで、そう、要は何でもよかったのだ。何も考えられない窮屈な時間がほしかった。自由な時間は思考を働かせ、弱った心を確かに蝕む。侵食は活動時間に限らず、たとえば今は眠ることですらひどく、ひどく恐ろしかった。
 ひとたび目を閉じれば真っ黒な怪物がやってきて、足元から這い上がってくるそれはたちまちグラジオを連れて行き、ピエリスをまた絶望の底へと叩き落としてあざ笑った。無音のなかに嘲笑が響き、指を刺されて、見下されて、かわいそうだと同情を向けられ、やがて悪夢へ誘われる。そこで起こるのは今までの怖い思い出だ。たとえばこの日は島めぐりのなかで出会ったこわいおとなたちの腕が伸びてきて、忘れられないままの痛みに喘いでいると、どうしてだかそこにグラジオがぽつりと立っているのだ。表情の読めない顔のまま無言で突っ立ってこちらを見つめている彼に、知られたくなかった汚いところをすべて見られて、そうして汗だくになった頃に目を覚ます。
 ここからはいつもと同じだった。生活感のうかがえない部屋に申し訳程度に置かれたベッドのうえ、荒い息を吐き出しながらまたピエリスは涙を流す。どうしていいのかわからない。夜だっていつだって眠れない。どこにも安らぎなんかない。
 グラジオさま――かすかな声で名前を呼ぶ。返事はない。物音もしない。涙がシーツにシミを作った。
 かつてグラジオが目を瞠るほどだった健啖さはもう影も形もなかった。食べ物なんてまともに口に入れられなくなっていて、少し食べればすぐに戻してしまうし、なんとか腹に収められたとしても吐き気と恐怖に襲われて動くことができなくなる。動かなければ怖いのが来る。だから吐き戻して無理やり体を動かした。幸い水は摂れるし塩を舐めるくらいなら出来るので、この程度なら死にはしないだろうとたかをくくる。別に死んだっていいけれど、いや、むしろ、今は。
 手をとめれば、立ち止まればまたすぐに空虚と絶望が顔を出すのだ。怖いものたちはだくりゅうのように襲ってきて、そうして無情にもピエリスのことを飲み込もうとする。怖くて淋しくて死にたくて、けれどもどんなに泣いたって誰も助けてなんかくれない。誰にも言えることじゃない。ふとグラジオの言葉がこだました。伝えたい言葉がある。嫌いになったわけじゃない。その言葉は強く硬く信じられるけれど、信じるだけで乗り越えられるほど簡単な断崖ではなかった。彼の傍にいられない絶望は容易くピエリスのことを蝕んで、今日もまた足元をふわりと揺らがせては、彼女を真っ暗闇へ連れて行くのだ。
「――もうっ。これで何度目ですか、さすがのわたしも怒っちゃいますよ」
「……すみません」
 抗いようのない眩暈と吐き気に襲われて意識を手放したあと。目を覚ました先にあったのは、だんだん見慣れてきた真っ白な天井だった。
 ここはエーテルパラダイスの救護室だ。すっかり常連となってしまったことに自嘲を漏らしかけた刹那、覚醒しきらないまま耳に滑り込んできたのはビッケの怒声で、けれども多大に心配を含んだ声色はどこか淋しげである。さすがにもう形ばかりの謝罪は通じないのだろう、ビッケはつり上げた眉をそのままに厳しい顔をして言う。
「今月に入ってもう三度目です。わかります? 偶然セロシアさんが通り掛かってくれたからいいものの、発見が遅れてしまったらもしもの場合だってあるんですよ」
「…………」
「まだ若いからこれだけで済んでるの。あと十年もしたらしわ寄せが来るかもしれないし、病院送りで済めばいいけれど――」
「ビッケさま、わたしは大丈夫ですから」
「そんな言葉は信用できません。……あんまりひどいとグラジオさまに報告しちゃいますからね」
 ――グラジオさま。ビッケから告げられたその名前に、ピエリスの奥の奥にある柔らかいところが刺激される。ぐちゃり、音を立てて何かが壊れる気配がして、ピエリスは今にも起き上がらんばかりに強い動揺を見せた。
「や――めて、ください! 何でもします、何だってやりますから、それだけはあの、どうか――あ、」
 ベッドを軋ませる彼女を押さえ込んだのはジュナイパーだ。彼はピエリスが島めぐりを行っているときからの相棒であり、そして良き理解者だった。さっきだって倒れた直後になんとかモンスターボールから這い出し、真っ青になった彼女を担いでセロシアを呼び止めたらしいのである。
 ピエリスの動揺の程は異常と言うに他ならないが、その理由を考えれば当たり前とも言えるものであった。こんなすがたを晒してたまるか。せっかく夢を叶えたのに、強さを追い求める旅に出られたのに、前へ進もうとしているのに――足手まといにはなりたくない、ボロボロの体を暴れさせるピエリスをなんとか寝かしつけようとするビッケは、鬼気迫るその様子を見ても瞳を揺らすことはない。決意のままに彼女を見る。痩せた肩を掴んだ手は、どこか震えているようだ。
「……なら、どうか体を大事にして。あなただけの体じゃないの、グラジオさま、とっても心配しているわ」
「そん――」
「言われたの。わたしね、旅立ち前のグラジオさまに、『アイツはきっとひどく落ち込んでいるだろうから、どうか無理をしないよう見ていてやってほしい』って頼まれたのよ。あなたのこと、あの人は本当に大切に思っていらっしゃるの。だから」
 どうか、あの人の大切なものを傷つけないであげて――そう言うビッケはこの上なく痛ましそうに目を歪めていた。お願い、と懇願され、彼女からあふれる優しさに包まれているのがわかる。
 ――心配をかけている。迷惑をかけている。心配、してくれる誰かがいる。今のピエリスにとってビッケの思いやりはひどく煩わしいものであったが、けれども強くあたたかなものであることも確かだった。
 家族が何かを思い出せないまま、無償の愛を知らないままにここまできた。独りで歩いたような気でいた。けれどこうしてグラジオが、ビッケが、ジュナイパーたちが「何か」を向けてくれているのはわかる。それを理解しきれるのがいつになるかはわからないけれど、ほろりと溢れた涙は今までの絶望とはまた違っていて、あたたかくピエリスの頬をぬらした。
 かさり。木の葉の擦れるような音に目を動かすと、気遣わしげに目を垂れ下がらせたジュナイパーがピエリスの手に触れているのが見えた。よしよし、よしよし、労るようなその手つきからは彼の想いが伝わってきて、まるで視界がひらけたような心地になり、腰につけたモンスターボールが忙しなく揺れていることにも気がつけた。きっと彼らも――仲間たちも、ピエリスの身をひどく案じてくれている。
 皆の優しさというものは、本人が思っている以上にピエリスの心を潤している。空っぽだと思っていた心のなかに、少しずつ少しずつ、ゆっくりと優しさが溜まってゆく。たとえ微かでもそれは悲しみを追い出して、彼女に希望を見せんとしている。
 けれども、結局ここにグラジオは――
「帰ってきたあの人に、元気なすがたを見せてあげましょう。ね」
 ビッケの柔らかいてのひらが、ピエリスの前髪を梳かして額を撫でる。
 ――おやすみなさい。とろけるような声を聞いて、ピエリスはまたたく間に眠りに落ちた。あくむの足音は、しない。

 
20201029 加筆修正
20171205