07

「やったじゃないか、世長。ついに念願のジャックエース」
 ゆったりと照らす月明かりの下、僕の背中をぽんぽんと優しく叩く雛杉先輩は、いつもどおり柔らかくその目元を緩ませている。
 秋公演も無事に終わり、程なくして僕たちは冬公演へと臨むことになった。此度の脚本は少しシリアス……というか、落ちついた雰囲気の話である。
 それは、燃えるようではないが切なくも物悲しい恋の物語。胸をぎゅっと締めつけ、むしろ虚しさすら与えるこの話は、前公演との温度差でお客様たちに風邪を引かせてしまうかもしれない。
 配役発表があったのは今日の午後のこと。前回のコミカルな雰囲気から一変した今回の公演には、やはり落ちついたような……哀愁すら漂う人間がジャックエースになるのがいいと判断された。今のクォーツのジャックエースといえば他でもないスズくんだし、オー・ラマ・ハヴェンナのジレを思えば演れなくもないと周囲は口々に囁きあう。
 けれど、彼は選ばれなかった。僕のほうが今回のジャックエースに相応しいと白田先輩が言ったから。……否、他でもない雛杉先輩の言葉によって、僕は推薦されたのである。
 舞台以外であまり前に立つことのない雛杉先輩の言葉は、ともすればかつてのカイさんのような独特な重みを帯びている。今回のジャックエースには世長が良いと思うんだ――その一言を皮切りにざわつき出したクォーツの面々も、普段の先輩の振る舞いを証明しているようだった。
 何はともあれ、そうした先輩の計らいもあってか、ついに僕は希佐ちゃんというアルジャンヌの隣に立つジャックエースになれたのである。
 配役発表が行われたときの希佐ちゃんとスズくんの言葉を、僕は一言一句違わずに思い出すことができる。

 ――ちっくしょー、今回は世長がジャックエースかよ! ……やーでも、わかる。今回の主演って俺にはちょっと厳しいかもしんないし、納得っちゃ納得だわ。
 ――ジレとはまた違ったタイプだもんね。でも嬉しいな、創ちゃんとコンビを組めるなんて、去年の秋公演以来だし。
 ――確かに! あーくそ、スゲー悔しいけど応援するわ。立花と世長が組むの、もう一回くらい見てみたかったからさ。

 僕にジャックエースを奪われて悔しがるスズくんと、僕と組めたことを喜んでくれる希佐ちゃん。二人の一挙手一投足、吐息の頻度に至るまでこの脳裏には深く深く刻み込まれた。
 狂おしいほど見たかった光景だ。あの日から……入学したときからずっと僕はスズくんに勝ちたかったし、希佐ちゃんの隣に立ちたかった。アルジャンヌである希佐ちゃんのジャックエースになって、パートナーとして共に舞台に上がり、誰よりも何よりも輝かしい舞台を作ってやりたかった。
 去年の僕なら泣いて喜びそうな大抜擢。シナリオの雰囲気や空気感、希佐ちゃんとの関係性も相まって、切ない恋物語というのは今まで以上に心を込めて演じることができると思う。
 けれど……ああ、どうしてだろう。心の奥に何かがある。どうしようもない違和感を覚える。
 望んでいたはずなのに。これ以上ない幸せであるはずなのに、僕の心は悲鳴をあげるように「違うんだ」と叫んでいる。けたたましい警鐘を鳴らして、僕の目を覚まさせようとする。
 どうしてなんだと訊ねてみても、今度はすっかり静まり返って答えのひとつも教えてくれない。頼っていてはダメなのだ。自問自答のその向こうにある答えというやつを、きっと僕はこの両手両足を使い、おのれの力で見つけ出さなければならないから。
「……世長? どうしたんだ、真っ青だけど」
 僕の顔を覗き込んでくる雛杉先輩は、僕のことを心の底から心配しているようだった。この人は基本的に無表情で何を考えているのかわからないが、それでも最近はなんとなく、本当になんとなくだけれど彼女の考えていることが読み取れるようになってきた。もしかすると、雛杉先輩本人が僕に気持ちを伝えようとしてくれているだけなのかもしれないけれど。
 視界の真ん中にある先輩の顔を前にすると、なんだかひどく安らぐような心地になる。いやに詰まっていた呼吸が再び通り始めて咳き込んでしまった僕を、先輩はどこか慌てた様子で慰め、優しく背中をさすってくれた。涙でうるんだ視界を遮るように目を閉じると、そこには先輩の緋色の瞳が焼きつくように残っている。
 ……せんぱい。僕が力なくそう呼ぶと、先輩はやはり目を細めながらどうした、と返してくれた。
「初めて……です。ジャックエースに選ばれるのは」
「そうだね。後輩の晴れ舞台が見えると思うと僕も嬉しいよ、白田に口利きしといてよかった」
「口利き……ですか?」
「そう。実はさ、今回の脚本が決まったのって昨日の夜遅くで……僕、白田の手伝いで確認作業とかやってたんだよ。そこで君のことを推しておいたんだ」
「そうなんですか……」
「今日の配役発表のときも、つい口を出しちゃったけど……昨夜にはもう決まってたんだ。白田も『この脚本なら織巻より世長のほうがいいかもな』って、自分から言ってたくらいだし」
 でも、うまくいってよかった――満足気に言う雛杉先輩を見ると、打って変わって胸の痛みが強まるような気さえした。
 ほしかったものを手に入れた。喉から手が出るほどに求め、手に入らない苦しみを噛み、持つ者たちを羨んでは視界を真っ赤に染めた日々。悔しくて悔しくてたまらなかった。妬ましくて憎らしくて、深く深く読み込みながらも破り去ってやりたくなった台本たちが、今も僕の部屋で丁重な眠りに耽っている。
 けれど――暗い部屋のなかで思い描いた僕の夢は、僕の知らぬ間にすっかりかたちをかえてしまっていたのだろう。
 違和感とともにある不安、焦燥感、嫌悪感。その正体に僕はもう、とっくに気づいているのかもしれない。
「……先輩」
「うん?」
「先輩は――」
 言いかけて、口をつぐむ。先輩はこてんと首を傾げながら僕のことを見ていて、誰もいないテラスに降り注ぐ月明かりによって、その輪郭が際立った。
 先輩は「白田のおかげでジャックでいられる」と言っていたけれど、こうしてまじまじ見ると納得のいく言葉である。女性なのだから当然といえば当然だが、先輩の喉も肩も腰も何もかも、まったく男性らしくはない。少し力を込めれば折れそうで、簡単に組み敷いてしまえそうで、僕みたいな華奢な人間でも押さえ込んでしまえるだろう。
 雛杉通は女なのだ。ジャックとして舞台に立ってはいるけれど、この人は……いま目の前にいる彼女は、どうしようもなく女なのである。
「え……あ、世長――!?」
 考えるよりもはやく、この両の手は先輩の細い体を抱きしめる。
 抱きあうなんて別に珍しいことじゃない。現に僕は先輩たちがそういう雰囲気になって抱きあっているところを何度も見たし、これこそ演技指導の一環だとか、適当な理由をつけてしまえばかんたんに流せてしまえることだ。
 細くて、柔らかくて、頼りないような体。触れれば触れるほどこの人が女であることを思い知る。すぐにでも壊せてしまいそうなほど脆く、僕とは違う、圧倒的に似ていない、他でもない異性なのだ。
 ――僕のアルジャンヌが、あなたであればよかったのに。
 とうとう喉から出てこれなかったひと言を噛みしめるように、僕は先輩の体をきつく抱きしめ続けていた。

 
20210507