06

 僕と、二番手の恋しようか――そうささやく雛杉先輩の声が、もうずっと鼓膜の奥に貼りついて消えてくれない。
 夏合宿のあの夜から一転、僕たちの関係はみるみるうちに変わってしまった。……否、変わらざるを得なかったと言うべきか。
「……おはよう、世長。よく眠れた?」
 真っ暗な視界に光が射した頃、僕はひどく優しい声と、額にあるあたたかな手のひらの感触とともに目を覚ます。
 おおよそユニヴェールでは無縁であろうその柔らかさは、風邪を引いて寝込んでいたときの――あの日の希佐ちゃんの手のひらを思い出すようで、思い出とともにこの胸は音を立てて軋んだ。
「ん……はい。多分……」
「そう。ならよかった」
 ……あれから。僕たち二人は、何を思ったか同じベッドで夜を明かすことが増えた。増えた、というか、そういう日ができたのだ。
 年頃の男女が二人、誰もいない密室でベッドに潜って夜を過ごすというのがどういうことなのか、僕にだってそれくらいわかっている。むしろわかりすぎているほどだ、何故なら僕は希佐ちゃんとの「そういう夜」を、ずっとずっと夢見ていたのだから。
 けれども幸か不幸か、僕たちのあいだにそんな甘いひと時は訪れなかった。
 ただひたすら寄り添いあって眠る。共に起きて、朝一番に「おはよう」と言う。十代も後半の少年少女にはあるまじき、健全すぎる夜を僕たちは幾度も過ごしていた。
 もっとも、もしも僕がそういう目で先輩を見て、そういうことに踏み込んだとき。先輩が絶対に僕を拒んだりしないということを、僕は心のどこか、本能的な部分で理解しているのだけれど。
「秋公演、やっぱり織巻のジャックエースと立花のアルジャンヌは様になるね。稽古の時点で違う」
「……! ――」
「ま、僕は今の配役で満足しているけど。君とコンビも組めたことだし」
 夏合宿や夏休みも終わり、秋の足音を聞いている今時分。目まぐるしい日々は僕にとって二度目の秋公演を控えさせ、休む間もなく晴れ舞台に向けての稽古が始まっていた。
 根地先輩が卒業しても、脚本にはやはり「根地黒門」の名前が書かれている。卒業前の先輩が忘れ形見のように残してくれた脚本たちを、白田先輩たち77期の皆さんが読み解き、配役を決め、江西先生たちの手を借りながら舞台として形作っているのだ。
 去年のように……それこそ、央國のシシアで感じたような「これだ」という直感こそないが、それでも時折り心の深いところに語りかけてくるような、ズドンと落ちてくる感覚をおぼえる。そのときに全身で感じるのだ、根地先輩の残滓や息吹を。伊達にまる一年彼の脚本で演じ続けてはいないようで、偉大なる先輩のことを、役者としての魂が覚えている事実がひどく嬉しかった。
 ……嬉しかった。そう思うと同時に、「僕ではそうなれないのだ」という悔しさと劣等感が襲ってきて、また自己嫌悪を重ねてしまうのだけれど。
「世長」
「えっ……ん、――」
 そして、僕が思考の泥沼に沈みかけるたびに、先輩はこうして僕のくちびるを奪っていく。
 あまりにもタイミングが良すぎるので「顔に出ていましたか」と訊ねたこともあった。けれど先輩は首を横に振り、うっすらと笑いながら「そんな気分になっただけ」と言うのだ。僕がその言葉を信じない、信じられないと見越したうえでそう言っているのだとしたら、なんて恐ろしい人間なんだろうと、いま目の前にいる先輩に僕は畏怖の念すら抱いてしまう。
 だってそもそも雛杉先輩は、僕に先日の答えを聞こうとすらしないのだ。二番手の恋なんて普通あり得ないものだし、付き合ってもいない二人がキスをして、健全とはいえ何度もともに夜を過ごすなんて。それこそ舞台のうえじゃあるまいし、時々無性に「これは一体どういうことなんだ」とキツく問い詰めてしまいたくなる。……やけに手慣れたキスをしてくる先輩にも、キスのあと、嫌悪感らしいものをいっさい感じない自分にも。
 わかっている。わかっているんだ、本当は。自分が雛杉先輩に惹かれ始めていることも、先輩の粘ついた優しさに甘え始めている、弱い自分がいることも。このままいけばいつか僕は先輩なしでは生きられなくなるだろうし、先輩にすべてを委ね、先輩のすべてを僕のものにしたいと、先輩のなかを僕でいっぱいにしたいと思い始めてしまうのだろう。
 けれど、そう思う心の裏側で、未だに希佐ちゃんへの気持ちを捨てきれない自分もいる。僕にとって初めての人。初めての恋、初めての勇気、初めての誓いを覚えさせてくれた、唯一無二の女の子。僕は希佐ちゃんのことが好きだ。ずっとずっと、一生そのまま、たとえ希佐ちゃんが誰かのものになったとしても、その事実は変わらないと思っていた。綺麗な人、眩しい子、「大切な初恋の女の子」である希佐ちゃんを、いつかこの手でぐちゃぐちゃにしてしまう未来すら描きながら、世長創司郎という自分を形作っていくのだと信じていた。
 なのに、今やその確信すらどこかぼやけているようで。確固たるものであったはずのあの日の誓いが、雛杉通という存在によってかき消されるような感覚に陥る。忘れたくないと思う自分と、忘れてしまえば楽になるのにという自分が、ずっとせめぎあい続けている。
 僕は弱い人間だ。弱くて、どうしようもなくて、優しくされたいくせにいざ与えられても信じきることができない。昨日まで信じていたものに、急な不信感を覚えて突き放してしまうことすらある。
 一生と言って過言ではないほどの感情を希佐ちゃんに抱いていたくせに、いざ彼女が他の人間のものになって、敗北を認めてしまった矢先、失恋の傷を舐めてくれる人にころっと落ちかけている。都合が良くて、自分勝手で、最低と言うにもおぞましいようなことをやっているのだろう。
 僕は、弱くて最低な男だ。一度与えられた優しさをすべて吸い尽くさん勢いで、縋るように手を伸ばしてしまう。「二番手の恋をしよう」という甘言にこの身すべてで寄りかかって、きっともう今ですら雛杉先輩なしでは生きられなくなっている。先輩に対して最低なことばかり強いているのに、もう既にこの人が消えたときが生命の切れ目であるとすら脳裏によぎるほど、彼女に依存し始めている。
 雛杉通は恐ろしい。けれどそれよりも恐ろしいのは、都合良く彼女に甘えながらも痛い痛いと泣き喚いてはあなたが悪いと叫んでいる、自分勝手でどうしようもない、世長創司郎という僕自身だ。
 

20210430