09

 人の気配は微塵も感じられない。静寂ばかりがこの場を統べるクォーツ稽古場に、僕たち二人は立っていた。
 みんな冬公演の疲れを癒やしているのだろうか。驚くほど静かなこの場所はまるで僕たち以外の人間すべてがいなくなってしまったような錯覚を見せ、本当に二人だけの世界を浴びているような気持ちにさせる。空調の音と僕らの足音、吐息、衣擦ればかりが聞こえてきて、いつもなら精神をひどく落ち込ませるだろう夜の静寂なのに、今はなぜだか優しく感じられた。
 ――この世界が、本当に僕たち二人だけになってしまえばいいのに。そう思ってしまう自分を、今なら少しだけ受け入れられるような気がする。
「それにしても突然だな……ねえ世長、僕は今までジャック専門でやってきたんだけど」
 稽古着に着替えた雛杉先輩がストレッチを繰り返している。軽い即興劇なのだし問題はないと思えたが、ユニヴェールは大伊達山の中腹にあることも相まって夜間は特に冷え込んでしまうし、季節のことを考えたら当然の行為である。先輩につられてストレッチを重ねながら、僕はずっと彼女の行動を目で追っていた。
 別に先輩らしくないなんて思ったことはないけれど、こうしてストイックに演劇と向き合っていることを思うと、入学のきっかけはどうあれ、彼女が今まで真面目にこの学校で学んできたのだろうことを再確認できる。そもそも入学できたこと自体がある種の「特別」であるのだが、それについて言及するのはいっそやめておこうと思う。
 ただひとつ問題があるとしたら、僕の目の前で着替えようとしたことなのだけれど……「別に裸になるわけでもないし、君は僕の事情を知ってるからいいだろ」と事もなげに言ってのけた先輩のことは、この際思い切って忘れてやろうと思った。
「わかってます。でも……どうしても確かめたいことがあって」
 僕の答えを訝しんでいるのか否か。先輩はどこか探るような目をしながらもうなずき、大きく、けれどもゆったりとした深呼吸を重ねる。
 これは稽古のたびにやっていることらしく、こうして自分のなかの「性」というものを遮断するんだと言っていた。男とか女とか、そういった柵をすべて取り去ってありのままの自分に……ひいては空っぽの器になり、そこにひとつ役柄を落とし、コンビ相手で残りを満たす。そうやって役柄になりきって――むしろ、役柄を通り越して「個人」になって舞台に立ってきたのだと、雛杉先輩は語っていた。
 ならば今、あの人のなかは僕でいっぱいになっているのだろうか。今から演じる女のうえに、世長創司郎という僕をどんどん満たしているのか。……彼女は今、ただひたすらに僕のことだけを考えてくれているのだろうか。
 雛杉先輩のことを埋め尽くす僕の概念がそこにあるのかと思うと――ぞくぞくと何か、這い上がるようなものを感じる。
「……いいよ。いつでもどうぞ」
 ひやり。先輩のその一言を合図に、一気に稽古場の空気が冴える。舞台を暖めるでなくゆっくり冷やすような先輩の雰囲気は、磨き方を変えてしまえばきっとあのアンバーに近しいものとなるのだろう。凛とした彼女の視線がこの身を貫くように刺さり、僕は即興劇の範囲を超えた緊張感に心を奮い立たせた。
 張りつめた空気をあえて引き裂くように近づく。一歩、二歩、三歩……どれだけ近づいても先輩は怖じることもないが、しかし何かを悟ったのだろう、あと少しで触れるといったところで後退りをする。ゆっくり引き下がっていく彼女を追い詰めるように進み、やがて壁際まで追い込んでから手をつく。鏡越しに見える自分の顔は今まで見たことないほどに冷たく、けれどもどこか高ぶっているようにも見えた。
『……通さん』
 しっとりと、情感たっぷりで彼女の名前を呼んでやる。大きく見開いた彼女の瞳は、やはりというべきか頼れる「雛杉先輩」のものではなかった。
 偽りで作られた彼女の名前。僕には決して届かないところにある、嘘で塗り固められた彼女の素顔。鉄仮面にも等しいそれを剥ぐように、吐息すら混じりあう距離まで顔を近づけてささやいた。
『通さん。僕、わかってしまいました』
 脳裏に過ぎるのはオー・ラマ・ハヴェンナ。今の僕はフギオー……否、フギオーの魂を持った「誰か」だ。
 目の前にいるのはチッチではない。チッチはもうどこにもいないし、娘も、向井も、シャルルもシシアも誰もかも、きっとあるべき誰かの隣で幸せに浸っているはずだ。
 僕の席はそこにはない。今の僕にはあるのは……少しだけ逸れたところにある、僕だけの終着点だ。
『もしかすると、結局僕はあなたの手のひらで転がされていただけなのかもしれないけど……でも昨日、ううん、冬公演の稽古を重ねるうちに、それは確信に変わりました』
『…………』
『忘れるのは怖い。けれど、乗り越えることと忘れることを同義に考える必要はない。それにやっと気がついたんです。僕はもう、痛がって泣いてるだけの子供でいるのはやめたいから』
 先輩の瞳が揺れる。僕の言葉を待っているのか、それとも言葉をなくしているのか。はくはくを開閉ばかり繰り返すそのくちびるを、今すぐにでも塞いでやりたいとすら思う。
 今まで先輩が僕にやってきたように、先輩の思考回路を僕でいっぱいにして、むしろ一切を考えられないくらいの衝撃を与えてやりたかった。
 僕のすべてを喰らっていったこの人を、今度は僕が、喰らってやりたい。
『あの子はもう……きっと、僕のものにはならない。けど、代替であなたを求めるのでもない。今の僕はもうすでに、心からあなたを欲して――』
 刹那、先輩がふわりと僕の頬を撫でる。細く滑らかな手つきは紛うことなき女のそれだ。
 今ここにいるのはユニヴェール歌劇学校に所属するジャックではない。ただひたすらの、女であった。
『嘘つき』
 先輩は眉を下げて笑った。諦めたようでもあり、どこか呆れたようでもあるその表情に僕の心は再び揺れる。固めたはずの決意がひと撫でで瓦解してしまいそうになり、思わず言葉に詰まってしまった。
 僕の様子を窺っていたらしい先輩は、小さくこぼすように笑って言葉を次ぐ。その声は、やはり独特の色香を持って僕の頬を撫でるようだった。
『だって君はずっと……そう、昨日だって名残惜しそうに、彼女の背中を見ていたじゃない』
『……そうですね。見ていましたよ、自分のなかでちゃんと区切りをつけるために』
 もっともな指摘だ。未練がましそうな様子を晒しておいて、今ごろ愛を囁かれたとて誰もそんなもの信じない。
 瞳を閉じると浮かぶ彼女の背中。ぼやけて消えてしまいそうなそれに怯え、死にものぐるいで手繰るように過ごしていた日もあった。空を切るばかりの両手を嘆いて、全身を切り裂かれるような思いもした。耐えがたい痛みによる眠れずの夜は数え切れない。
 けれど、そんな弱くも情けない自分とはもうおさらばだ。
 僕はもう、初恋と思い出にすがるだけの子供からは卒業するんだ。
『――好きです』
 言葉を吐いて、途端。めぐる血潮の一滴すら昂ぶるような、全身が熱を持つような感覚がほとばしる。
 見開かれた先輩の瞳に負けないくらい、今この瞬間僕の心は燃え出した。もうこの赤は怖くない。飲まれるよりも、飲んでみたい。
 僕はこの人のものであるし、この人を僕のものにしてしまいたい。そう、願ってしまった。
『好きなんです。僕はあなたが……通さんのことが好きだ。来る日も来る日もあなたのことばかり考えるし、今ではもうあなたのいない日々なんて考えられない。卒業が怖いとすら思う』
『ま……待って、世長』
『あなたの優しさに甘えるだけの毎日はやめにしたい。今度は……今度こそは、僕だってあなたのためになりたいって――』
「待ってったら!」
 雛のひと声が暗い稽古場に木霊する。途端に周囲を埋め尽くしていた甘い空気は形を変え、しんとした本来の夜の気配が僕らのあいだに帰ってきた。
 即興劇の殻を破った向こうにいたのは、たったひとり、瞳をうるませた雛杉先輩だった。頬を染めるそのすがたはあまりにも「女」であって、生々しいその様子に思わずごくりと喉が鳴る。
 同時に、僕は半ば無理やり我にかえることとなった。こみ上げるのは、終始自分勝手に事を運んだことへの羞恥心と罪悪感だ。
「あ……ッ、す、すみません! いきなりこんな真似をして――」
 慌てふためく僕のから顔を背け、先輩は小さく息をつく。そして、相変わらず赤らんだままの顔で僕に言うのだ、「ちゃんと言ってよ」と。
「本当に僕のことを好きだと思ってくれるのなら、即興劇なんて予防線を張るのはやめて。ちゃんと君の――創司郎の、言葉で言って」
 鏡にひっつけていた背中を剥がし、先輩は――通さんは、ゆっくりと僕にしなだれかかってくる。やがて背にまわされた手は微かに震えているようで、僕はその震えを止めるように、思い切り彼女を抱きしめた。
「……好きです、通さん。僕はもう……あなたなしでは生きられない」
 少し体を離した通さんが、僕を見上げて目を閉じる。それがいったい何を示しているのかわからないほど、世間知らずなつもりはない。
 初めて自分から触れた彼女のくちびるは、今までよりもずっと柔らかく、甘ったるいような気がした。

 
20210511