08

 結論から言ってしまえば、冬公演は奮わなかった。「手応えがなかった」と言うほうが正しいかもしれない。
 全力だった。本番はもちろん、本読みや役の掘り下げ、稽古の隅々に至るまですべて全力で挑んだはずだ。希佐ちゃんの隣に立つジャックエースとして、迷いこそありながらも僕は必死で稽古を続けた。アルジャンヌを支えるための器に、立花希佐という華を輝かせるために懸命にあそこに立っていたはずなのに。
 だのに、結局クラス優勝は叶わないまま、僕に至っては個人賞も取れなかった。最悪ではないが散々な結果だ。去年の秋公演――メアリー・ジェーンのときのごとく、全身の血が沸き立つような感覚を手繰り寄せることができなかったのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。
 僕たちの晴れ舞台を見に来てくれた先輩方のひどく険しい顔と視線を、僕は一生忘れることができないだろう。
「……どうしたの、調子悪かった?」
 公演の翌日、テラスでうなだれている僕を今日も先輩は見つけてくれた。
 居たたまれなさに気配を消して佇んでいても、哀しくて痛くて身を隠していても、先輩はいつだって僕に気がついてくれる。その事実がひどく嬉しくて、まるでバカの一つ覚えのように僕は度々こうして逃げた。先輩が追いかけてくるのを、僕を探し出してくれるのを、膝を抱えてずっと待った。
 子供みたいなかくれんぼが、いつだって僕の胸を少しずつ救ってくれていた。
 隣に立つ雛杉先輩の柔和で穏やかな気配を感じながら……僕は、ポツポツと言葉を吐き出す。
「……わかりません。でも、クラス優勝が取れなかったのは僕のせいだと思います」
「まさか。世長一人のせいではないよ」
「いえ……自分で、ちゃんとわかってるんです。希佐ちゃんもスズくんも……鳳くんも、白田先輩も雛杉先輩も、みんなみんな全力だった。みんなで最善をつくしていたのに……この僕ときたら」
「でも、世長だってちゃんと全力を出してはいただろう? 立花とのパートナーだし、君が普段の何倍も懸命に励んでいたの、僕も白田も知ってるよ。問題があるとしたら君を支え切れなかった僕のほうで――」
「そんなわけありません!!」
 先輩から吐き出された自己否定に、僕はもはや反射的に撤回の言葉を返す。びくりと揺れる肩が目の端に映り、途端に自己嫌悪が足元から這い上がってきた。
 僕のほうを向いた先輩が緋色の瞳を瞬かせている。その、どこか弱々しい「女」の顔に耐え切れなくて、僕は口から漏れるような謝罪の言葉を吐いた。
「あ……すみません。いきなり声を荒げて」
「いいよ。こちらこそごめん。凹んでるのは世長のほうなのに、気を遣わせてしまったな」
 先輩は僕を咎めない。怒鳴りつけることもなく、ただただ優しい母のように、僕のことを柔らかく包んでくれる。その事実にどうにも泣きたくなったのを堪え、隣に立つ先輩を見た。
 夕焼けを映す瞳はいっそう赤く染まっている。この赤に飲み込まれてしまいたいと思うようになったのは果たしていつからだっただろう。最初はひたすら怖くて仕方がない、見透かすようだった先輩の瞳が、今となっては僕を認める唯一の許しのように見える。 
「……忘れるのが怖いという話、覚えていますか」
「もちろん。立花とのことだろ」
「はい。僕、今もその恐怖に怯え続けています。自分のなかからあの子が消えていく……少しずつ朧気になって、そのうちなくなってしまうんじゃないかって」
「…………」
「冬公演もずっとその恐怖に苛まれていました。内容も内容だったし、何度も自分と重ねてしまった。……今の僕に切ない恋物語は無理だったんです。感情移入よりも恐怖が……恐怖と、違和感が勝ってしまう」
 ――切ない恋の物語。今年の冬公演にて、アルジャンヌである希佐ちゃんとジャックエースである僕は、とある二人の男女を演じることになった。
 僕たちはいわゆる身分差恋愛の渦中にいて、装うは貴族のお嬢様と身寄りのない孤児の少年。二人はひょんなきっかけで出会い、お互いの素性も知らないまま無情にも惹かれあってしまった。程なくして判明する身分差という絶妙かつ濃ゆいスパイスも相まって、二人の想いはどんどん膨れ上がっていくのだが、やがてお嬢様には縁談の舞い込んできてしまうし、少年のほうも運良く迎えてもらえた家の都合で遠方に向かうこととなってしまう。
 恋がなければ幸せしかない話だ。お嬢様の縁談の相手は評判の良い貴族様だったし、孤児の少年が十代も後半になって家族を得られるなんてそうそうない幸甚である。
 恋さえなければ幸せだった。けれど、二人のあいだにはどうしようもない恋慕が横たわっていたのだ。
 結局二人は結ばれることなく終わり……故郷から離れ大きくなった青年は、彼女との日々を「そんなこともあったな」と軽い思い出話にして、生まれたばかりの子供の寝物語にすらしてしまう……という内容だった。
 ――怖かった。僕は、この話がただひたすらに怖かった。主人公におのれの感情を投影しながらも、叶わない恋に身を痛めた。彼の生き様をまるで我が身のことのように感じる裏側で、希佐ちゃんを愛するという役柄にひどい違和感を覚えてしまった。
 彼女にはもうスズくんがいるのに。大好きで大切で仕方ない彼女だけのジャックエースがいるのに、どうして今更こんなことをしなければいけないのだと、惨めな気持ちはともすれば怒りにすら転じてしまいそうで、その鬱憤を抱えながら稽古に臨んだ。
 僕が抱える恐怖、違和感、憤怒、矛盾――様々な感情を感じ取っていたのだろう、隣に立つ希佐ちゃんもずっと首を傾げているようであって、その様子にまたこの胸は軋むような痛みを覚える。
 希佐ちゃんのことを哀しませたくて、苦しませたくて舞台に立っているわけじゃないのに――冬公演を経て僕は強烈に理解した。希佐ちゃんの隣にいるのはきっとずっとスズくんで、もはや僕にその席は……「幼なじみの創ちゃん」以外の役割は存在していないのだと。何より、この僕自身がそれを拒んでいるのだと。
 ……気持ちの伴わない公演なんて、きっと僕にはできないのだ。
 僕は、希佐ちゃんにも舞台にも申し訳ないと地に落ちるような罪悪感を覚える裏側で、ひとつの気づきを得てしまっていた。
「その……先輩。ひとつお願いがあるんですけど」
 先輩の双眸をじっと見る。気づけば夕陽はすっかりすがたを隠してしまって、いま先輩の瞳に映るのは街灯の灯りくらいのものだ。
 なあに、と優しく答える先輩。彼女がこれからの僕に対して果たしてどんなリアクションを取るのか、どんな顔を見せてくれるのか。それが非常に怖いけれどもどこか楽しみだと思う自分もいて、わからないことだらけ、ままならないことばかりのこの人生で、僕は初めて、本気で何かを追い求めようとしているのかもしれない。
「僕と即興劇をやってください。僕がジャックで……あなたは、ジャンヌ」

 
20210510