大丈夫だよ、ここにいるから

 ねえ、リナリア。ちょっとだけ体貸して――言うやいなやのマサルが背後から覆いかぶってきたのは、なんてことない昼下がりのことだった。
 突然襲うずっしりとした重みに面食らうも、しかし、リナリアがそれを撥ねつけるようなことはなかった。ただ静かに彼を受け止め、おだやかに接している。

「マサル、大丈夫? もしかして何かあった?」
「いや……とくに、なんにも」

 なんにもない――それは、半分当たりで半分外れの、彼からよく聞く言葉だった。
 チャンピオンになってから程なくして、どうにも言語化できない苦難に苛まれることが増えたのだと。別に重たいわけではないが、時折すべてを忘れてどこかへ行ってしまいたくなる……そう聞いたのは、マサルと一緒にいるようになってしばらく経った頃だった。
 道半ばで挫折したリナリアには、彼の痛みはわからない。力のない自分には想像もできないようなことだろうし、無理に共感しようとするのも得策ではないと思う。
 同じ目線で見ることができないのなら、せめて彼の、彼だけのとまり木になれれば。少しでもマサルのためになれることを考えた末の結論が、ただひたすらに、その苦しみを受け止めるということだった。
 そう誓ってからは、時おりひどくぶきように甘えてくるマサルのことを、ひどく愛おしく、いじらしいふうに思うようになった。時にはぎゅっと胸が締めつけられるような気持ちになるし、今すぐにでもすべて抱きしめて、何もかもから守ってやりたくなる。
 とはいえ、リナリアにそんなことができるような力はないのだけれど――
 重たい空気を少しでも払拭するため、リナリアは努めて声を明るくしながら、目の前の鍋に少しだけ意識を割く。

「今日はねえ、マサルの好きなカレーだよ。一昨日お裾分けしてもらった特別なトッピングも入れたから……あとで一緒に食べようね」

 ぐるぐると鍋をかき混ぜながら、背負ったままのマサルに声をかける。依然として重みが和らぐことはなかったが、それでも小さく頷く気配だけは感じ取ることができた。

 そうして、しばらく静かにしているうちに、鍋はすっかり煮えたようだ。軽く味見だけ済ませて火をとめる。

「……よし。ごはんもできたし、ちょっとだけ休憩しよっかな。マサルも行こう、ほら」

 声をかけながら、半ばマサルを引きずるようにキッチンからリビングへと移動する。マサルはリナリアの肩に顔を埋めたままであるが、しっかりとついてきてくれた。
 こんなときに思うのは、自分が普通の女の子より力が強くてよかったな、ということ。幼少期からホシガリスと体ひとつでぶつかってきたリナリアにとって、年下の男の子ひとり背負って動くことは造作もなかった。
 リビングの真ん中に鎮座するのは、二人にとって思い入れのある、お気に入りのソファである。ここで一緒に住むことを決めた日に、二人で選んだ特別な家具だ。
 どうにかマサルの体を離さないようにソファへ座り、正面から彼の体を受け止める。ここまでいっさい喋らずにいる様子に少しばかり心配の気が強くなるが、思いきり抱きしめてくる両腕を思うと、それはたちまち慈愛へと変わった。

「大丈夫だよ、マサル。わたし、なんでも聞くからね。わたしにできることなら、マサルのお願い、全部叶えたいの」

 言うと、マサルの肩がぴくりと揺れる。やがてゆるゆると体を離し、すがるような目でリナリアのほうを見た。

「じゃあ……今日と、できれば、明日も。ぼくと一緒にいてほしいんだ。……久々のオフだし、たまにはゆっくりしたくて」
「もちろんだよ。そろそろかなーと思って、食べ物とかも買い溜めしてあるから。いざとなったらエースバーンたちにおつかいを頼めばいいし、一週間くらい引き篭もってても大丈夫かも」
「あはは……一週間はさすがにまずいかな」

 やっと、マサルが笑ってくれた。今日は帰宅してからずっと表情が暗かったので、ようやっと安らいだような顔が見えて、ほっと胸をなでおろす。

「……ありがとう、リナリア。きみがいてくれて、本当によかった」

 言いながら、マサルはやさしくリナリアの顎をすくい、これまたやさしくキスを落とす。何度も何度も繰り返されるそれは慈しむようでもあれば甘えるようでもあり、愛おしさとくすぐったさが募っていった。

「それはわたしのセリフだけど……えへへ。今日と明日、いっぱいゆっくりしようね」

 少しだけ生気を取り戻したマサルにふたたび抱きしめられ、リナリアはそっと目を閉じる。彼の想いを、痛みを、すべて受け止めるようにして。
 結局、二人はあれやこれやと理由をつけてまるまる一週間を濃密に過ごすこととなるのだが――それはまた、別のお話である。

 
あなたが×××で書く本日の140字SSのお題は『癒しの場所』です
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2022/09/07