押しつぶされた心に

 ――気分転換をしてやろう! そう思ったわたしが行き先に選んだのは、つい先日オープンしたばかりの、シュートシティの遊園地だった。一人で来るにはあまりに不釣り合いな場所だけれど、マリィを見送ったあとのわたしの足は、なぜだかここに惹かれてしまったのである。
 もしかするとマリィたちのデート先がこの遊園地で、仲睦まじくやっている二人と独り身のわたしでばったり鉢合わせてしまうかもしれないな、なんて末恐ろしささえ持ちながらも、どうしてだかわたしはこの両足を止められなかった。まるで何かに導かれるような調子で、わたしはシュートシティの街並みを進んでいったのだが――しかし、それらもすべて杞憂で終わってしまった。
 なぜならわたしは結局この遊園地に足を踏み入れることすら叶わず、門前払いにも等しい扱いを受けてしまったのだから。

 頭からすっかり抜けていたのだ、この遊園地の人気の程が。辿り着いた頃には当日券もすべて売り切れてしまっていて、ひどく楽しげな歓声と仲睦まじいカップルに紛れることすら許されず、わたしにできたのはただ踵を返すことくらいであった。
 ……本当に、ついてない。おのれの不運と不出来さにめのまえがまっくらになりながら、わたしはゲート前のベンチに腰を下ろし、深いため息を吐いていた。

「わたし……本当に、ダメだねえ」
「り?」

 隣に座るヨクバリスへと話しかける。ヨクバリスはしっぽに溜め込んでいたきのみを取り出して、ジュースをすするわたしをよそにポリポリとそれを貪っていた。
 ヨクバリスはひどくのんきな顔をしているが、それでもわたしにとっては一番つきあいの長い、いわば相棒と言える存在だ。表情こそいつもと変わらないふうであるが、わたしのことを気遣ってくれたのだろう、しっぽからふたつめのきのみを取り出して、わたしに向かって差し出してくれる。人間でもそのまま食べやすい、柔らかく熟したモモンのみだ。
 のんきな性格のヨクバリスは、モモンのみのようなあまい味が好きではないはずなのに……自分の苦手な味のきのみをわたしや仲間のポケモンたちのために蓄えていてくれたのかと思うと、その優しさに視界が滲む。

「……ありがとね、ヨクバリス」
「ばりっす」

 そうして、ヨクバリスの優しさに舌鼓を打っているおり、にわかに周囲が騒がしくなる。誰か有名人――それこそジムリーダーがそのあたりをうろついているのかと思い、ほんの少しだけ視線を上げると、そこにいたのは意外にも見知った顔の人だった。

「あれ……もしかして、マサル?」

 彼は――マサルはわたしにとってジムチャレンジの同期であり、つい先日無敗のチャンピオン・ダンデを打ち倒した渦中の人でもある。浮ついたギャラリーに少しだけ揉みくちゃにされている彼は、ほんの少し前までともに切磋琢磨していた同期のようには見えない。わたしからすればネズさん以上に雲の上の人で、もはや気安く話しかけることすら躊躇われるくらいの存在だ。
 ――居心地が悪い。なんとなく、そう思った。ヨクバリスにもらったモモンのみをかきこむように平らげ、パイルジュースも一気に啜る。
 はやくここから離れなくちゃ――まるで何かに追い立てられるような調子で片づけを済ませていたわたしを、よく通る声が一瞬で阻む。わたしの足首がにわかに掴まれたのは、空の容器をゴミ箱に捨てて、いよいよこの場を離れようと立ち上がったときだった。

「ごめんなさい! ぼく、友だちと待ち合わせをしてるので、これで――」

 目があってしまったのだ。人波をかき分け、必死に進もうとするマサルと。やがて彼はまっすぐわたしのほうへやってきて、申し訳なさそうに笑ったあと、わたしの腕を掴んで走る。
 視界の端には呆気にとられたギャラリーと、きのみをぽろぽろこぼしながら走ってくるヨクバリスの姿が映る。わたしは懐からモンスターボールを取り出して、どんどん遠ざかっていくヨクバリスをギリギリのところでボールに収めた。

 わたしの手首が解放されたのは、人の気配もほとんどない裏路地までつれて来られたあたりだった。栄えているくせにどこか古風な街の隙間にて、わたしたちは雑踏の影に隠れながら、なんとか息を整える。
 まだぜえぜえと肩を揺らしているマサルをよそに、わたしは数回深呼吸をして、なんとか体を落ちつけた。これくらいは慣れている。

「あ……うそ、リナリア、復活するの早いね? ぼく、まだ心臓がうるさいよ」
「あはは……わたし、丈夫さだけが取り柄だからね。体を動かすの、好きなんだ」
「確かに、腕相撲とかも強いもんね、リナリアは……っていうか、ごめんね、急に引っ張っちゃって。あの人たちちょっとしつこくってさ」

 ふにゃ、と笑うマサルの顔は初めて会ったときのそれと同じで、彼が今、ガラル内で一、二を争う凄腕トレーナーであることなんて微塵も感じさせない。

「それは全然いいけど……大丈夫なの? わたしなんかと逃げちゃったりして」
「どうして? リナリアが友だちなのは事実だし、何も間違ったことは――あ! もしかして、ほかに誰かと待ち合わせてたり……」
「あ、ううん! そういうわけじゃないんだけど――」

 一瞬、ひどく気まずい空気が流れる。わたしの無駄な自己卑下のせいで、また空気を悪くしてしまったようだ。
 マサルのまっすぐな視線に居心地の悪さをおぼえながら、わたしは微妙に滞ってしまった空気を払拭するため、なんとか話題をすげ替える。

「そういえば、マサルはどうしてあそこにいたの? 遊びに来たとか……?」
「ああ……じつは、遊園地の運営さんに呼ばれてたんだよね、エキシビションマッチをやってほしいってさ。で、無事にバトルも終わって、挨拶まわりも済ませたしそろそろ帰ろうかなってときに、あの人たちに捕まっちゃってたんだ」

 マサルは、どこか困ったように笑っている。肩をすくめ、空を見上げて、まるで何か思いを馳せるように。
 彼にならって視線を上げると、アーマーガアが数匹、抜けるような青空のなかを泳いでいるのが見える。そらとぶタクシーのようではないから、おそらく野生の個体だろう。この広い空を縦横無尽に飛びまわるアーマーガアはまるで自由の象徴のようで、今のわたしにはなんとなく、眩しく感じるものだった。
 しかし、こうして同じものを見てみたとしても、ただの凡人であるわたしには、マサルが何を考えているかなんてちっともわからなかった。わたしはあのアーマーガアに「自由」を見出しているけれど、マサルの目にはまったく違うものが映っているかもしれない。……たとえば、個体の強さがひと目でわかっちゃったりとか。
 確信なんていっさいないけれど、なぜだかマサルならそれくらいできてしまうんじゃないかと、そんなふうに思ってしまう。
 ……羨ましいな。胸の奥、ゆるりと湧き上がった羨望の気持ちが、愚かにもそのまま口から漏れる。

「……すごいよね、マサルは」

 わたしの無駄なつぶやきによって、マサルがひどく面食らったような顔をしているのが目の端に映る。そうしてわたしはやっと、自分の吐いた言葉がはらんだ汚さに気づいたのだった。
 途端、わたしの喉はすっかり詰まり、何にも言えなくなってしまった。きゅうに様子をおかしくしたわたしに気がついたのか、マサルはひどく落ちついた声で、わたしに同じ問いかけをしてくる。気遣いの一手、かもしれない。

「……リナリアこそ、どうしてあそこに? もしかして帰るところだったのかな」
「ぁ……えっと、ううん。……帰るどころか、むしろ入れなかったんだ、遊園地。ちょっと気が向いて来てみたんだけど、当日券も売り切れてて。これじゃあなーんもできないじゃんってなって、ヨクバリスとぼーっとしてたの」

 マサルは何も言わない。ただひたすら、わたしの言葉を促すように視線を向けてくれるだけ。その目にはチャンピオンとして立ちはだかるときの鋭さはなく、ただひたすらに優しい、おだやかなもののように思えた。
 なのに――否、だからこそ。だからこそ、みっともなくて脆いわたしはすっかり彼の優しさにあまえてしまい、この不躾で汚い口を閉じることができなかった。ぽろぽろと、それこそヨクバリスのしっぽからこぼれ落ちるきのみのように、わたしの口からとめどない言葉がまろびでる。

「わたし……ほんとうに要領が悪くて長続きもしないから、なんにもうまくいかないんだよね。マサルも知ってると思うけど、ジムチャレンジも途中で諦めることになっちゃったし。あとは……そうだな、ちょっと前には失恋なんかしちゃって――」

 途端、脳裏によぎるのはデートに出かけた今日のマリィと、それを迎えたであろうおにいちゃんだ。二人は今もどこかで仲良くやっているのだろうし、きっとこれからも、末永く一緒に連れそってゆくのだと思う。……悔しいかな、わたしはおにいちゃんの悪いところも嫌なところもよく知っているくせに、あの二人が仲違いするところがいっさい頭に浮かばないんだ。
 ……わたしも、あんなふうになりたかった。マリィがおにいちゃんと連れ添うみたいに、ネズさんの隣に立ちたかった。ネズさんのために生きて、ネズさんのとなりで、ネズさんのことを支えて――他でもないネズさんに、ひどく愛されてみたかった。大好きな人に大好きだって言われたかった。大切な人の“いちばん”になって、そこで笑っていたかった。
 ただ求めるだけ、羨んで泣くだけのわたしには、到底無理なことばかりなのだろうけれど。

「――リナリア、」
「え……? 、ぁ、ひやっ」

 そうしてぐちゃぐちゃと考え込んでいると、黙りこくったわたしを案じてくれたのか、揺れる視界のど真ん中にマサルの顔が飛び込んでくる。その瞬間になってやっと、わたしは視界が滲んでいることと、みっともないすがたを晒していることに気がついたのだ。
 驚愕のあまり瞳をしばたたかせると、今度はぬるい液体がいくつも頬を伝う。ごめんなさい、と言う声はひどく震えていて、わたしはまた、このうえないみっともなさを塗り重ねてしまった。

 気まずさと申し訳なさに顔を背け、肩をすくませていると、程なくしてマサルの――感情がいっさい読み取れないような、ひどく静かな声が響く。

「……きみは、まるでこらえるように泣くんだね」

 マサルの手のひらが、どこか無遠慮にわたしの頬へ伸びてくる。わたしには、ひどく複雑な面持ちをしているマサルが何を考えているのか、何をしようとしているのかは皆目検討もつかなかったが――しかし、そこにネガティブな感情がないことだけは、なんとなく察することができた、と思う。

「……悔しい?」
「え……?」
「ジムチャレンジもうまくいかなくて、好きな人にも振り向いてもらえなくて――それで、リナリアは、悔しかった?」

 マサルが静かに問いかけてくる。断罪のような痛みはなく、どちらかというと寄り添うような、ぬくもりをふくむその言葉。まるで幼子に言い聞かせるようなマサルの声色は、今のわたしの濁りきった胸の奥を、やさしく、やわらかに撫でてくる。

「……わから、ない。わたし、何にも持ってないから、本当に何もわからないの。自分が何を思ってるのか、どんなふうになりたいのかも、本当に全然っ、わからなくて――!」

 まるで、迷子のような気分だった。自分の本当の気持ちすらわからないおのれの姿が、親を見失って泣き叫ぶ子供のそれに重なる。
 もう、どうしていいかわからない。優しく握りつぶされた心臓から流れる血が、透明な雫となって両の目から溢れてくる。情けない。情けない! こんなときすら思うようにできない自分が、ひどく歯がゆくて、虚しい。
 何も言えずに肩を揺らしてしゃくりあげるわたしのことを、マサルはずっと、見守ってくれている。今のわたしは、ただ恐ろしくて、その顔を見ることもできなかったが。

「……誰も、きみを責めてはいないのに。きみはいつも、まるで何かに怯えているみたいに生きているんだね」

 たしか、あのときもそうだったな――まるで懐かしむかのように、マサルが小さくつぶやいた。
 そのひと言をきっかけに、わたしの記憶はゆっくりと、彼と初めて二人で話したあの瞬間に遡る。

 
2023/01/14