君の答え

軽度の嘔吐描写あり

 ミラを一人前の戦士に育て上げるにあたって、まず一番にやるべきこと。それは、彼女の抱えた弱点――いわゆるトラウマ、心の傷をすっかり拭ってやることだった。
 恐れは逃げにつながる。敵に背中を見せるようなヤワな人間じゃあ高みには行けないし、俺の道についてくるなんてことも、とてもじゃないができやしない。それは食べ物の好き嫌いと同じように、しっかり克服するべきだ。
 たとえそれが彼女にとって茨の道で、何よりも恐ろしく思うものであったとしても。俺は、彼女にこの試練を乗り越えてほしいと思っている。

 フォンテーヌから慌ただしく璃月へと帰還した、その翌日。一晩ゆっくり休んだあと、俺はミラを璃月の郊外へと連れ出した。ここは以前彼女が宝盗団に襲われていたところであり、記憶の払拭を行うためにちょうどいいと判断した。
 今日から訓練を始めることも、彼女にはきちんと伝えてある。緊張のせいか昨夜はあまり眠れていないようだったが、コンディションを整えるのも戦士の修行のうちのひとつだ。その点を思えば、やはりミラはまだまだ未熟で、戦士としての第一歩すら踏み出せていない段階なのだろう。
 だが、それも仕方のないことだとわかっている。だからこそ俺は、今こそ彼女の体にまとわりつく「平穏」、もしくは「停滞」の香りをすべて消し去ってやらねばならない。
 そのために彼女を連れ出しているのだ。俺は彼女を信じている。俺が彼女にたいして求めているのは、他でもないこの俺のパートナーになってもらうこと――そのためにわざわざこんなものまで用意したのだから、ぜひとも彼女には、俺の気持ちに応えてもらいたい。

「ねえ、ミラ。これが何かわかる?」

 俺が差し出した物体を目にした途端、ミラは緊張と不安でいっぱいだった表情を一気に歪め、半歩ほど後退りをした。ひゅ、とちいさく喉が鳴ったことも、俺の耳は聞き逃さない。

「……うん、やっぱりそうだ。君は、火が苦手なんだね」

 俺の手のひらのうえには、炎元素の火種を閉じ込めた小瓶がある。コーティングとして施された氷元素のおかげで握りしめても熱くはないが、硝子の向こうで揺れている炎は決して幻なんかじゃない。
 ミラの目の前に小瓶を突き出し、火種を軽く揺らめかせてやる。常人からすればなんてことのない行動であるが、たったそれだけでミラはすっかり腰を抜かし、全身を震えさせながらその場にへたり込んでしまった。引きつるようなすすり泣きの声は非常に痛ましく、「執行官」であるこの俺にすら、一抹の罪悪感を抱かせる。
 その身を覆う恐怖心はすぐ全身にまわってしまったらしく、とうとう彼女はそれに耐え切れなくなったようだ。二人で食べた昼食を泣きじゃくりながら吐き戻し、惨めに何度も咳き込んでいる。

「ぁ……っ、ぐ、ゔえっ」
「正直、ここまでとは思ってなかったよ。そんな調子で、よくひとり旅なんかできたね」
「っ……ひ、とり、の、ときは。見ない……よ、に、してた、から……」
「そうか。……つまり、ずっと逃げ続けてたわけだ」

 痛ましくは思うものの、決して手を緩めるわけにはいかない。俺はミラの腕を乱暴に引っ張り上げて、半ば無理やりその場に立たせた。この手を離せばまたへたり込んでしまいそうだし、しばらくはこのまま掴んでおくか。
 彼女の意識をはっきりさせるために、ぎち、と肉が歪むほどの強さで腕を握りしめる。痛みと恐怖で歪んだ顔はみっともないほどぐちゃぐちゃになっていたが、今の俺に彼女の涙を拭ってやるつもりはない。
 胃液と吐瀉物で汚れた彼女を観察する。――ひどい有り様だ。ボロボロのまま肩で息をする様子は、かつてファデュイに入ったばかりの頃の同期のことを想起させた。もっとも、今となっては彼らの顔などいっさい思い出せないが。

「一人前の戦士たるもの、弱点なんてものがあってはいけない。特に、ここまで取り乱すほどのトラウマなら尚更だ」
「――ぐ、ゔ、えう」
「生まれ変わるんだよね? ……あの日の君は、こんなところで簡単に諦めてしまうような軽い気持ちで、俺の言葉に頷いたのかな?」

 俺は敗者には優しいけど、訓練で妥協するつもりはいっさいないよ――俺がそう続けると、ミラはどこか朧気な双眸を火種に向けた。
 その目つきはまるで炎に取り憑かれているようで、薄氷の瞳に映り込む火種の赤は皮肉なほどに美しい。

(さて……君は、これから何を見せてくれるかな?)

 彼女が火に対して強い恐怖心を抱いてることは、薄々ながら察していた。日常生活における違和感があまりにも多かったからだ。
 たとえば、璃月にいるとき。食堂や旅館では厨房に近づくことを極力避けていたし、店主にきちんと挨拶するわりには、厨房での視線はどこか落ち着きがなかった。道中の焚き火からもいやに距離をとっていて、何より俺を見るときの目が、ひどく複雑な色をしていたのだ。ナタの話を振ったときにはあからさまに動揺していたし、そんなもの、自分から怪しんでくれと言っているようなものだ。
 それらの違和感を繋ぎあわせていけば、彼女が火、もしくはそれを想起させる赤いものにたいして異常な恐怖心を抱いていることなど容易く類推できる。璃月での行動範囲がひどく限られていたことも、その仮説を裏づける立派な証拠のひとつだ。
 そして今、その疑惑は確信に変わった。……こんなちっぽけな火を前にしただけでこの有り様なのだから、どうやらその恐怖心は相当なものであると見える。
 もしかすると、火事やそれに準ずる事故でひどい目にあったことがあるのかもしれないな――なんて、そんなのは考えすぎだろうか。
 俺だって鬼ではないのだから、別に好き好んでこんなことをしているわけではない。ただ、戦場においてこの弱点は命取りだ。俺は彼女に生半可な気持ちで戦場に立ってほしくはないし、無様な理由で死んでほしくもない――彼女にはどこまでも、いつまでだって、俺の隣にいてほしいのだ。世界を統べ、誰よりも高らかな場所に立ったとき、その一番近くにいてほしい存在こそが、他でもないミラなのだから。
 だからこそ俺は、彼女に生ぬるい手を差し伸べたりはしない。彼女を信じたいからだ。彼女が自分の選択に責任を持ち、その足で立ち上がってくれることを望んでいる。その決意が見えたときこそ、俺は彼女に向けるこの感情に、名前をつけられる気がするから。
 俺の覚悟は決まっている。あとは、彼女がどうするかだ。

 しばらくして、ぴくりとミラの手首が動いたのが見えた。
 彼女は俺のまばたきの合間に腕を振り払い、手から小瓶を奪い取る。そして、何度も咳き込みながらそれを握りしめたあと、思い切り地面に打ちつけた。
 案の定というべきか否か、脆くなっていたせいで簡単に割れた小瓶はあっという間に火種を広げ、辺りを火の海へと変えた。俺に水元素の力があるからこその行動なのだろうか、不用意にこんなことをするのはよろしくない。一歩間違えればあわや大惨事である。
 しかし、火の海が広がる刹那に俺は見た。彼女の瞳に宿った強い炎を。意志の表出とでも言うべきか、薄氷じみていた双眸が硬い覚悟で塗り固められるその瞬間を、確かにこの目でとらえたのだ。

「こ……わく、ない! 平気だもん、これくらい……っ」

 強気なことを言いながらも、ミラはガタガタと震える手のひらを強く押さえつけていた。血が滲みそうなくらいにキツく握りしめられたそれを見ていると、不覚にも幼気な弟妹たちのすがたがよぎる。
 ある日、両親にこってりと絞られたあの子たちが、反省を促すために外へ放り出されたことがあった。スネージナヤの気候ではそんな行動命取りでしかないのだが、あの日は確かとんでもないことをやらかして、未だかつてないほど父を怒らせてしまったのだ。
 寒さと恐怖で震えた両手を握りしめながら、ずっと泣きじゃくっていた弟たち。俺はすぐにでも彼らを家に入れてやりたかったけれど、それも兄にとめられてしまった。しつけのためだから仕方ないと言われて、ただ見ていることしかできなかったのだ。
 当時の歯がゆい思いをよぎらせてしまったのは、結局のところ俺にこそ覚悟が足りていなかったせいかもしれない。俺は自分の甘さに辟易しながら彼女のもとへ歩み寄り、まるい頭に手を置いた。

「……君の覚悟は評価しよう。どうやら、本気で俺と一緒に来たいと思ってくれてるみたいだね」
「っ……あ、たりまえ、じゃん。うそなんか、つかないし……っ」
「うん、ごめんね。……ありがとう。俺は、今度こそ君のことを信じられそうだ」

 ミラの頭を撫でながら、俺は眼前に広がった小火を消火する。
 辺りの雑草は黒焦げになってしまったが、幸いなことに人目もないし、黙っておけば大丈夫だろう。仮にこの惨状が誰かの目に入ったとしても、きっとヒルチャールや宝盗団が何かやらかしたと思ってくれるはずだ。

「……泣いてたら刃が鈍っちゃうよ。これからしっかり研いでいくんだからね」 

 声もあげずに涙を流す彼女の肩を抱きながら、俺はちいさく息を吐く。無意識ながら俺自身にも力が入っていたらしく、深呼吸をすることで心が静まるのを感じた。
 ミラは臭いから離れてだの服が汚れちゃうだの言っていたけれど、そんなもの、風呂に入って服を洗えば済むことだ。今やるべきはそんな即物的なことではなく、彼女の覚悟をたたえ、これから先に目を向けることである。

「一旦旅館に帰ろうか。着替えて少し休んだら、次は座学を始めるよ。戦士たるもの、一分一秒だって無駄にはできないからね」

 鈍くうなずくミラをつれて、俺は璃月港への帰路を歩き出した。我ながらどこか足取りが軽く感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。

 
 2024/09/12