約束なんて意味がない(重雲)

「なあ、桃琳。ナタに温泉があるという話は知っているか?」

 重雲は、まるで大切にしまっておいた宝箱を開けるように、わたしに話を切り出した。彼の話の種は遠く離れた国、ナタについてのことだった。
 重雲は続ける。自分には「純陽の体」があるから、きっと温泉に入ることなんか叶わないと。けれど彼の瞳は陰りを宿してはおらず、むしろ未来に向けた希望でいっぱいだった。雪の日のまばゆい朝日のように、その瞳は鋭いくらいの眩しさでわたしのことを照らしてくる。

「今のままでは到底無理だろうけれど……いつかこの体をなんとかすることができたら、ぼくも温泉に行ってみたい。そして、そのときにはぜひ、お前にも一緒に来てほしいと思ってる。――も、っもちろん、行秋や香菱も誘って!」

 自分の発言が孕む危なっかしい意図を、時間差で理解したらしい。重雲は顔を真っ赤にして、深呼吸も交えながらしどろもどろに続ける。
 わたしが大丈夫だよ、と言っても彼はいっさい聞いてくれなくて、どうやら軽度のパニックに陥ってしまったようだ。このままではまた「純陽の体」が悪さをして、彼の柔らかい心に重たい鉛を落としてしまうかもしれない。
 ――やれやれ。わたしは重雲のまるい頬に手を伸ばし、気付けのつもりでほんの少しだけ力を込めてひねってやった。鋭く走った痛みのおかげでなんとか気を取り直したようだが、涙目で頬を押さえながらこちらを見つめてくる様子は、なけなしの罪悪感を刺激する――まるで捨てられた子犬のようだ。

「……うん。約束ね」

 私がそう返すと、重雲は何度か瞬きを繰り返したあとで、力強くうなずいた。
 
 ――わたしだけは知っている。その約束が、決して果たされないことを。

 
2024/08/28