あなたがきらいで仕方ない

 もう、二度と目を覚ましてやるもんかと思っていた。わたしにとって目覚めは絶望と同義であり、それを迎えるたびに耐えがたい苦痛に囚われてしまうからだ。
 だのに、意志に反してわたしはまた非情な朝を迎えてしまった。真っ白な天井をぼんやり眺めながらとまっていたはずの呼吸を繰り返し、嫌味ったらしくため息を吐く。
 ……死ねなかったんだ、わたし。生きていてほしい人は簡単に死んで、死にたがりのわたしはこうも図太く生き残るんだから、やはりこの世はどうにも不公平であるらしい。 
 でも、いったいどうしてだろう。誰もいない夜の海岸でカナヅチのわたしが、確かな「終焉」を感じたのに。どうしてわたしはまだ、惨めったらしく生きながらえてしまっているのか。 
 もしかすると、これはただの夢なのかもしれない。きっとわたしはとっくのとうに死んでいて、生死の境をさまよいながら、ただ都合のいい甘ったれた夢を見ているのだ。
 ……だって、そうでもしないと説明がつかないから。身を預けるベッドの柔らかさが昨日まで泊まっていたホテルのそれとまるっきり違ううえ、知らないくせによく知っている香りがわたしの嗅覚を刺激して、今すぐにでもここから逃げ出したくなっている。
 でも、きっと「それ」の主はわたしの微細な変化にすぐに気がついてしまうだろう。その証拠に、わたしのちいさな身動ぎを素早く聞きつけたその人が、見慣れた顔をひょっこりと覗かせたのだから。
 彼は明るいオレンジの髪をゆるやかになびかせて、わたしと目をあわせながら、笑う。

「……おはよう。やっとお目覚めみたいだね」

 恋しくて仕方なかった声は驚くほどあっけなくわたしの耳に馴染んでしまって、それだけで涙が出そうになった。
 けれど、そんな弱いところを見せるわけにはいかない。またあの目を向けられる。またあのときみたいに、身を切るような苦しみを味わうことになる。
 そんなのもうたくさんだ。わたしに都合のいい夢ならばきっとうまくいくはずだから、涙だけはなんとか堪えて、さっさと話を切り上げてしまおう。そして、今度こそこの未練がましい「わたし」をすべて殺してやるんだ。

「……どうして、あなたがここにいるの」
「そうだねえ……どうしてだと思う?」
「質問してるのはわたしなんだけど」
「アハハ、それはそうか。……実はね、今日は君を探しに来たんだ」

 そう言われた途端、わたしの思考回路は呆気ないほど簡単に停止した。
 わたしのことを、探しに来た――? そんなの、あまりにもバカげてる。いくら都合のいい夢とはいえ、よりによってそんなことを言わせるやつがあるか。わたしの深層意識というやつは想像の何倍も彼のことを求めていたらしく、救えない浅ましさに半ば虚しくなってしまった。
 わたしは虚しさと苛立ちを必死に抑えながら、彼と視線をあわせるために身を起こす。多少の気だるさは残っていたが、座っていられないほどではない。

「君を探すの、結構苦労したんだよ? 名前と、見た目……あとは出身くらいしか知らなかったからさ、俺。だから部下たちに情報を集めさせて、色んなところにアンテナ張って……まあ、最終的にはあの『召使』と壁炉の家の子たちのおかげでなんとかなったんだけど」
「……そんな大掛かりなこと、何のために」
「何のためかって? そりゃあ君の――いや、俺のためさ。どうしても確かめたいことがあったからね」

 言いながら、タルタリヤさんはゆったりとした足取りでわたしの休むベッドへと近づいてくる。そのまま縁へと腰掛けてから思いきり体を傾け、吐息がかかりそうなほどの至近距離でわたしのことを見つめてきた。真っ青な瞳はフォンテーヌの海の色とよく似ていて、それこそわたしを飲み込んだ深海と相違ない。
 ……途端、ひどく寒気がした。底知れないその瞳に、飲まれるような心地がした。気づけばわたしの手足は震え、ちいさな眩暈と心拍の乱れが見えている。けれどそんなわたしの様子などお構いなしに、タルタリヤさんはまるで尋問でもするかのような調子で、わたしに優しく詰め寄ってきた。

「あの日、どうして俺の前から消えた?」

 ――冷たい。氷点に届くほど冷えた雫が、ぽちゃんと水面を打ち鳴らす。一瞬で張りつめた空気はわたしの知らない世界を作り出し、今度はあっという間に体の芯まで冷え切った。
 タルタリヤさんの分厚い手のひらは知らぬ間にわたしのそれへと重ねられていて、まるで「逃がさない」とでも言いたげに、痛みを覚えるほどの強い力で繋ぎ止められている。
 これがわたしの夢ならば、わたしはこうして夢に見るほど、彼に詰め寄られることを望んでいたのだろうか?
 タルタリヤさんの意図は依然としていっさい読めない。口元は柔らかく弧を描いているのに、そこに気持ちがこもる様子はない。スネージナヤの堅氷を思わせるそれは、温暖な地域に育ったわたしのすべてを凍りつかせるようだった。
 まるで、誘導でもされたかのように。わたしは青くなった唇を震わせながら、心の奥に押し込めた苦痛を吐露する。

「……きら、われたと、思ったから」
「は?」
「もう終わりだって思ったの。あのとき、タルタリヤさんにすごく冷たい目で見られて……ほんとに、全部ダメになったんだと思った。わたしはまた間違えたんだって、またあいつにとられちゃうんだって怖くて――だから璃月にもさよならした。タルタリヤさんがあいつと仲良くしてるところなんて、絶対見たくなかったから」

 わたしが唇を噛みしめていると、タルタリヤさんは少しばかり考え込む様子を見せながら、ほんの少しだけ身を引いてくれる。去り際に見えた青はわずかに温度を取り戻していて、そのかすかなぬくもりにまた涙が出そうになった。
 次に投げかけられたのは、「君は旅人が嫌いなの?」という、至極まっとうな疑問だった。夢ならばもう隠しておく必要はないだろうし、この際洗いざらい吐いてしまおう。
 
「嫌いっていうか……いや、なんだよ」
「うん?」
「とられたく、ないの。これ以上、わたしの大切な人を――」

 所詮はただの恨み言でしかなかった。一度堰を切ったそれはもはや留まることを知らず、とうとう堪えきれなくなった涙とともに、汚い本音をさらけ出してしまう。
 瞳の冷たさはまだ残っているくせに、タルタリヤさんは決してわたしのことを急かそうとせず、怨嗟のすべてを吐き出しきる、そのときを静かに待ってくれる。温度と振る舞いの段差はわたしの胸を強く掻き乱して、嗚咽のようにすべてをぶちまけさせる要因のひとつとなった。

「見たくなかったの! またあいつが――あの女が、わたしから奪ってくとこなんて!」
「『また』ってことは……前にも、彼女と何かあったんだね?」
「っ……何か、ってわけじゃないけど……わたし、小さい頃からずっとずっと好きだった人がいてね。その人の視線を、あいつが全部、横から奪ってったの――」

 ただ、見ていることしかできなかった――否、見ている暇もないほどの早さで積み重なっていた絆は、馬鹿らしいほど容易く、わたしの初恋を踏みにじった。
 だからわたしは、あんなに愛おしかった故郷のすべてを捨てたんだ。
 家族を亡くし、ギリギリのところで生きるわたしの唯一の存在理由が、大好きな初恋の人だった。あの人がいてくれたから――あの人が笑いかけてくれたから、わたしはまだなんとか立っていられたのに。瓦解の日は家族を失った日と同じくらいひどく突然にやってきて、呆気ないほどの圧倒的な力でわたしからすべてを奪っていった。
 見てしまったのだ。あの人があいつに――あの「旅人」の背中に、柔らかな目を向けていたところを。ほんの少しだけ熱のこもった視線はあの人が操る炎にも似ていて、旅人に何らかの感情を抱いていると思わせるには充分すぎるものだった。あの瞬間にわたしのすべては崩壊し、やがては今日に至るまでの「わたし」を殺す旅が始まったのだ。
 否――思い返せば、もしかするとあの瞬間にこそ、「わたし」は一度目の死を迎えていたのかもしれない。

「わ、かってるよ、全部ただの逆恨みで、どうしようもないってこと。タルタリヤさんが、わたしなんかのものじゃないってことも」
「うん」
「でも……でも! ほんとに、見て、られなくて……っ」

 情けない言葉はとうとう声にならなくなり、それきりわたしは涙につまって何も言えなくなってしまった。
 うつむいて泣きじゃくるわたしの頭上に降り注いでいた、タルタリヤさんからの無言の圧。それが静かにやんだのは、わたしの嗚咽が響き渡るホテルの一室に、衣擦れの音が割り込んだ頃。わたしの眼下にあるタルタリヤさんの手の甲がびしょびしょに濡れている、それに気がついた頃だった。

「君の言うとおり、俺は君のものになったつもりはない。でも、同じように旅人のものになったわけでもないからね」
「え……?」
「俺も、ちょっとは反省したってことさ」

 期待をもたせるその優しさを、すぐにでも突っぱねてしまいたかった。
 夢ならもう覚めてほしいと、そう願わずにはいられない。これ以上惨めで無様な自分を実感したくないからだ。けれど目の前の現象はわたしの嘆願に逆らい、はやく楽にしてくれと思う間もなく、タルタリヤさんの手のひらをわたしの頬へと導く。
 濡れそぼった頬を優しくなぞる指の感触は、わたしの頭を撫でてくれていた、あのときのものと何ら変わりなかった。

「誤解をさせちゃったことは謝るよ。君に好きだって言われたとき、正直なところ、ちょっと戸惑っちゃったからさ。そんな目で見られてたなんて、ちっとも考えてなかったし……」
「っ――」
「ああ、そんな顔しないで。大丈夫だよ、別に嫌だったとか、君を嫌いになったわけじゃない。ただ……まあ、なんとなく違和感があって、うまく咀嚼できなかったんだよね。でも、その違和感もすぐに君がいないことへの喪失感に変わってさ。……そうだね、思えば最初からそうだった。どうやら俺は、一度離れてみないと君の存在の大きさがわからないらしい」

 タルタリヤさんは、どこか感慨深げに視線を落とす。
 ちいさなため息と共に彼はがしがしと頭を掻き、バツの悪そうな顔をする。その姿は璃月で見ていたあの頃の彼と相違なく、融解を迎えた安心感からか、わたしは引っ込みかけた涙を再び溢れさせる羽目となった。
 もう、夢でも何でもいい。この人が、わたしにぬくもりを向けてくれるなら。そう考えを改めるのに、さして時間はかからなかった。

「ひとつだけ、聞いてもいいかな。……君はまだ、俺のことを好きでいてくれてる?」

 ――どくり。心臓が、ひときわ大きく音を立てた。全身から汗が吹き出て、緩みかけたわたしのすべてをおびただしいまでの緊張感で包む。
 間違えたくない。それが、一番に思ったこと。ここで間違えたらきっと、わたしはまたすべてをダメにする。その次に思ったのは、そうして間違えなければ、この都合のいい夢が続くかもしれないということだった。
 わたしのためにあるようなこの空想の世界で、今度こそこの人の心をわたしだけのものにできたら。そう思うのに、脳裏にはあの日の冷たい青がよみがえる。今回もまた、「好き」だと言った途端にすべてが崩落してしまうのではないかと、気づけばまたわたしの手足は無様にぶるぶると震えている。
「沈黙」が答えになることだけは避けたかった。そのために、わたしは揺らぐ唇をゆっくりと動かす。
 
「き……ら、い。きらい、全部。っすき、なんかじゃ、ない……っ」

 何を言うのも、とても怖くて。結局わたしの口から出たのは――わたしが選んでしまったのは、どうしようもなく惨めで愚かな、「失敗」に至る道だった。
「すき」と言うのが怖かった。あの日にわたしを捉えた氷が、きっと今もこの胸にこびりついたまま、少しも溶けずに残っているから。そうしてわたしは今回もおのれの恐怖に勝てなくて、再びおおきく間違えた。
 その証拠に、タルタリヤさんはおおきな目をとびきりに見開いて、ひどく傷ついたような、力ない笑みを浮かべている。あどけない表情はわたしの罪悪感と自己嫌悪を強く刺激して、まるで血の気が引くようだった。
 ……どうして、そんな顔をするの。わたしなんかに「きらい」と言われたくらいで、どうしてあなたは傷つくことができるの。この場で嘘を吐けるような人ではないだろうから、きっとその表情に嘘偽りはないのだろうけれど――どうしてあなたは今このときに、そんな顔ができてしまうの。
 わたしがぐるぐると頭を悩ませていると、タルタリヤさんはちいさく息を吐き、再び口を動かしはじめた。

「うん……そう。でも、たとえ君が俺のことを嫌いだったとしても、俺はもうその程度じゃ君を手放そうと思えないんだ。君が俺のことをどう思っていようと、俺は君と一緒にいたいし……君のことを、どこへだって連れて行くつもりだ」
「そ、んなの……って、」
「君に拒否権はない――なんて言うと、ちょっと勝手すぎるかな。……ついてきてくれるかい?」

 ほしかった言葉をこんなにたくさん投げかけられて、それを撥ねつけられる人間が果たしてどこにいるというのか。わたしが首を縦に振ると、タルタリヤさんはほっとしたように満面の笑みを浮かべる。人懐っこくて、まぶしくて、わたしを照らす太陽の笑みだ。
 夢だったとしても、もうどうでもいい。その笑顔を最期に見ることができたわたしは、きっと誰よりも幸せだ。
 わたしが喉を震わせながら言葉を紡ぐと、タルタリヤさんは一心に耳を傾けてくれる。

「わたし……も、一緒が、いい。一緒に、行きたい」
「俺のこと嫌いなのに?」
「う、っ」
「アハハ、冗談だよ。……いいんだ、今はそれで」

 ――もう一度、俺のことを好きって言わせてみせるからね。
 こちらにぐっと身を寄せながら、タルタリヤさんはそう囁く。まるで恋人のような距離感はわたしの体温をわずかに高くして、どうしようもない思い上がりまで起こさせた。
 わたしの変化を察したのか、タルタリヤさんは頬を寄せたままちいさく笑みをこぼし、その手のひらをわたしの後頭部へと滑らせる。

「俺と一緒に来るなら――いや、一緒にいたいと思ってくれるなら、君は俺と共に歩くに足る、一人前の戦士にならなくちゃあいけない。弱くて逃げてばかりの過去を脱ぎ捨てて、新しい自分に生まれ変わるんだ。……君に、その覚悟はあるかな?」

 わたしに、拒否権なんてなかった。
 ――この人は、「わたし」を殺してくれるんだ。弱くて、脆くて、どうしようもない過去の「わたし」を、他でもないタルタリヤさんがその手で消してくれるなら、そんなの、願ってもないことだ。
 わたしがちいさくうなずくと、タルタリヤさんは再びささやかな笑みをこぼして、そっとわたしの頭を撫でる。その指先は今までで一番優しくもあり、どこか支配的な傲慢さに満ちていた。

「ああ、いい子だね。さすがは『俺のミラ』だ。――さあ、あとは君の努力次第だよ」

 まるで子守唄のようなささやきを聞きながら、わたしはそっと目を閉じる。「最期」に味わえた世界がこれでよかったと、心からの歓びを抱きながら。

 
ここで一旦ひと区切り
2024/07/20