海のような怪物

海に身投げする描写があります

 

 

「――すみません。長期間、お世話になりました」

 旅館をチェックアウトするとき、不思議と心は凪いでいた。
 鍵を返す際には若旦那さんが優しく笑顔を向けてくれて、そのあたたかさに溢れそうになった涙をぐっとこらえ、静かに旅館を後にする。すっかり顔馴染みになった従業員さんが何人か声をかけてくれたけれど、彼らと話せば話すほど未練が湧いてしまうと思い、会釈だけ済ませて足早に出てきた。
 もう璃月に未練はない。この地に留まる理由もない――そう言い聞かせて、わたしはまた一歩を踏み出す。
 もう一度、最初から始めるのだ。「わたし」を消してしまうための旅を、今度こそ完遂するために。

 
  ◇◇◇

 
 旅館を離れた理由なんて、衝動と言って相違ない。
 すっかり逃げ癖のついたわたしの両足はあっという間に璃月を離れ、流れるようにスメールまで足を伸ばした。本当なら稲妻にも行ってみたかったのだけれど、近頃は鎖国をしているらしく、足を踏み入れることは叶わなかった。
 スメールでの生活は不慣れなことばかりだったけれど、居心地の悪さはそれほど感じなかった気がする。あまり見たことのない植物がたくさん生い茂っている雨林の光景は、平坦だった日々の味わいを、ほんの少しだけ変えてくれた。
 その後はせっかくなので護衛を雇い、過酷極まりない砂漠を越える道を選んだ。スメールシティの人々はわたしに何度も考え直すよう言ってくれたけれど、結局わたしが考えを改めることはなかった。理由としては簡単で、どうせ破滅的な日々を送るなら最短距離を進みたかった、ただそれだけで――否、もしかするとただ自暴自棄という四文字のみを引っさげて、この砂漠に自分の死に場所を見出したかっただけかもしれない。
 しかし、わたしの雇ったガイドさんはひどく優秀な人だったようで、途中でいくつかのアクシデントに見舞われこそしたものの、ちいさな世間話や砂漠での豆知識、生活の知恵を歓談として織り交ぜながら、無事にわたしを砂漠の向こう側まで送り届けてくれた。焚き火に怯えるわたしを気遣って簡易的な囲いまで作ってくれたその人は、まるで何かを見透かしたかのように「元気でね」と手を振り、わたしの姿が見えなくなるまでずっと見守ってくれていた。その視線のむず痒さと底知れなさは、スメールを離れてしばらく経った今でもはっきりと思い出せる。
 そうして様々な道を乗り越えたわたしは、とうとう故郷より遠く離れたフォンテーヌへとたどり着いたのであった。

 自分がフォンテーヌを求めた理由は、正直なところよくわからない。
 どこでもよかったのだ。それこそ、あのままスメールに留まる選択肢だってわたしのなかにはあったはず。結局のところわたしが求めていたのはただの逃避であり、故郷、もしくは旅人から――何よりあのタルタリヤさんから離れられるなら、目的地なんてどこだってよかった。
 しかし、この足が選んだのは予想外にも、青く広がる水の国。水神に守られる「正義」の国を無意識に選んだ理由には我ながらまだピンときていないが、もしかすると「水」をまとうタルタリヤさんへの救いの気持ちと、彼にもたらされた恐怖心――あるいは、この胸のうちでひどく凝り固まった希死念慮の心が、ゆるやかな「死」を与えてくれるこの国へと引き寄せられたのかもしれない。
 そんなことばかりを考えながら、わたしはフォンテーヌ廷の片隅でアクアロードを行き来する巡水船を眺めている。見る人が見れば、きっとわたしはひどく思いつめた人間のように映るだろう。

「やあ、こんにちはお嬢さん。ずいぶんと暗い顔をしているね」

 ――案の定だ。スメールでもフォンテーヌでも、もちろん璃月にいた頃だって、こうして声をかけられる機会は少なくなかった。それが善意なのか悪意なのかはこの際置いておくが、とにかくこの世の人間は妙に「お節介」が多いらしい。
 わたしは背後から投げかけられた覚えのない声に、ゆっくりと振り返ってやる。ぼんやりとしたわたしの意識を引き戻したのは、あまり見慣れない雰囲気の様相をした一人の少年だった。
 彼は人好きのする笑みを浮かべながらゆっくりとこちらへ歩み寄り、どこか気品ある所作でわたしの隣に並び立つ。

「おっと……その様子を見るに、もしかして僕のことをご存知ない感じかな。申し遅れました、僕はリネ。このフォンテーヌが誇る『大魔術師』さ」
「『大魔術師』……?」

 わたしが怪訝そうな目を向けると、目の前の彼はいっさい笑みを崩さないままトランプを取り出した。おそらくそういった態度をとられるのには慣れているのだろう、彼はわたしの態度など気にしないような調子で、優雅に指先を遊ばせている。洗練された動きと話術にはほんの少しばかり胸が躍る気がしたが、鬱屈と沈みきったわたしの心を浮き上がらせるだけの効力はない。
 何より――なんとなく、思い出されるものがある。彼の懐っこい雰囲気はタルタリヤさんを彷彿とさせ、ただそこにいるだけで、わたしの視界をひどく曇らせる要因になりうる。
 しかし、わたしの様子などお構いなしに彼は巧みな動作でトランプを操りつづけ、最後には軽快に指を鳴らした。まるで空を割るようなそれは、音量としてはひどくささやかなものであるはずなのに、わたしの意識をぴしゃりと彼に惹きつける。

「3、2、1――ハイ! ……ほら、これは僕からのプレゼントだよ。君が笑顔と――大切な人を取り戻せるようにね」

 彼が指差したほうに目をやると、わたしの肩には知らぬ間に一輪の花が咲き誇っていた。
 この花は確か、フォンテーヌで見られる「ルミドゥースベル」という品種だっただろうか。花言葉は「離別」と「再会への願い」であると、幼い頃に図鑑で読んだことがある。わたしの記憶が正しければだが、確かにこの花は彼のメッセージにもふさわしい一輪であるように思えた。
 とはいえ、「離別」ならまだしも、「再会への願い」だなんて。そんなもの、今のわたしには望むだけ無駄なことだ。

「……気持ちだけ受け取っとくね。ありがとう」

 わたしが口先の感謝を述べると、「大魔術師」は艶っぽく目を細め、わたしの旅路を祝福してくれた。

 
  ◇◇◇

 
 誰かに呼ばれたような気がするとは、ひどく月並みで使い古された表現だろうか。
 しかし、そうでも言わないと説明できないくらいの引力でもって、わたしの両足は確固たる意志を持って歩み、この場に導かれたのだ。
 誰もいない夜の海は、優しくもあればひどく恐ろしい。わたしは興奮と恐怖で四肢を震わせながら、たった一人で熱のはらんだ深呼吸を繰り返している。

(……夜のせいか、深くて全然底が見えない。このまま沈んじゃったら、いったいどうなるんだろう)

 眼前に広がるフォンテーヌの大海を見渡しながら、わたしは再びぼんやりと物思いにふける。……近頃はこんなふうに、あれやこれやと取り留めもなく考え込むことが増えた。その始まりは間違いなく、璃月から逃げ出したあの日にほかならない。
 あれから、幸せな人に向ける憎悪はひときわ強く膨れ上がっていった。町中ですれ違う夫婦や家族連れを見るたびにその感情は強まって、わたしの体をめぐる血液をどす黒い色へと変えていく。
 人が憎くて、妬ましくてたまらない。負け惜しみと言われてもいい。なんにもうまくいかないわたしの前で幸せそうに笑う人々が、殺したいほどに憎たらしい。
「わたし」に対する憎悪や苛立ちと変わらないくらいの熱量を持って、わたしはずっと、目の前に歩く無関係の人間にすら、口にするのも憚られるような激情を抱えつづけている。
 醜くて、みっともない、地べたを這いずるような日々だ。しかし、嫉妬や怨嗟を孕む傍らで皮肉にも蘇るのは、まだ笑顔を浮かべられていたはずの、璃月での生活である。

(いま思えば、あの頃だってちゃんと楽しかったんだな。今よりも少しだけ世界が明るく見えて、ほんのちょっと前向きだった気がする……まだ、朝起きるのが楽しみだったんだもん)

 その「楽しみ」の理由なんてただひとつ。外を出歩けば、タルタリヤさんに会えるかもしれなかったから。
 ――今頃、何をしてるだろう。例の新しい「争いの種」と、今も仲良くやってるのかな。「執行官」としての職務を全うしながら、あの頃と変わらないまま、戦いに明け暮れる日々を送っているのだろうか。
 ぐっと空を見上げると、まばゆい月光と星々の煌めきが、至るところから舞い込んでくる。
 ……スメールの学者が言っていた。この空に浮かぶ星座には、人の運命が記されている可能性があるのだと。それが真実であるならば、もしかするとわたしの運命についても――わたしとタルタリヤさんの行く末に関しても、この数多の星々のなかに、答えが描かれていたのかもしれない。

「……会いたいな」

 意識をするよりも先に、そのひと言が口から出ていた。音として発せられたそれはわたしの耳を介して感覚へと滑り込み、この数ヶ月ずっと封じ込めていた本音を、あっという間に引きずり出した。
 ……会いたい。タルタリヤさんに、会いたくて会いたくてたまらない。あの大きくて分厚い手のひらで優しく頭をなでてほしいし、「大丈夫だよ」って笑ってほしい。「争いの種」でも何でもいいから、わたしという存在を認めてほしい。わたしにここに立つ意味を、存在意義を与えてほしい。
 わたしの四肢をずっと支配している、震えを全部奪ってほしい。もう一度だけ、わたしに「光」を与えてほしい――
 けれど、そんなことを思ったって無駄だ。なぜなら逃げてきたのは他でもないわたし自身で、わたしに立ち向かう勇気がなかった結果、こんなことになってしまったのだから。
 
 全部、わたしが悪いんだ。そもそもとして、彼のことを好きになったこと自体が間違いだったのかもしれない。結果、旅人のせいで変に焦って、好きだなんて口走って、間違いに間違いを重ねてしまった。それで、全部が壊れてしまった。
 あんなことは言うべきじゃなかった。いくら旅人の影がちらついたからって、わたしはまた軽率に、間違った道を選んでしまったらしい。
 ……でも、もうとめられなかった。わたしの心も、体も、魂も、そのどれもがどうしようもないくらいに彼のことを好きで、誰のものにもなってほしくなかった。どこにも行ってほしくなくて、わたしのことを必要として、わたしのことを見てほしかった。
 その浅ましい思いがすべてをぶち壊してしまったのだけれど、この口を閉じることはついぞできないままだった。口は災いのもとなんて、ちいさい頃からたくさん言い聞かされてきたのに。

(後悔したって、もう何にも帰ってこないし……どこにも、帰れないのにね)
 
 自己嫌悪の波は依然として寄せては返し、何度も何度も繰り返しながら、わたしの足をさらおうとしている。海というのはかくも恐ろしく、わたしのすべてを終焉へ導こうとするらしい。
 ……このまま、海に溶けてしまえたら。海のなかにさらわれて、溶け込んで、水と一緒になってしまえたら、めぐりめぐってあの人のところに会いに行けるのかもしれない。テイワットの海を泳げば、ずっと向こうのスネージナヤだって、わたしはきっとたどり着ける――
 そう思ってからは早かった。わたしの足はゆっくりと砂浜を進み、まるで何かに誘われるかのごとく、その深淵へと手を伸ばす。
 今度こそわたしは、このどうしようもないわたしごと、弱くて脆い「わたし」を殺してやるのだと――そう意気込んで、わたしはこの身を深淵の奥へと潜り込ませた。
 つま先に触れる海水は思いの外ぬるかったけれど、それはまたたく間にわたしのすべてを包み込み、ゆっくりと終焉へ誘ってくれる。

「『神の目』を持ってたら水中でも呼吸できるって噂、本当だったんだ……」

 誰に聞かれるでもない独り言をぬるい海へと吐き出してやる。わたしの声に反応したらしいプクプク獣が一瞬こちらに目をやったが、わたしに敵意がないと判断したのか、注意はすぐに逸れた。
 わたしは、生まれてこの方海に入ったことがない。ゆえに泳ぎ方も知らなかったから、きっとすぐにでももがき苦しむものだと思っていたけれど……意外にもフォンテーヌの大海はゆっくりとわたしのことを受け入れて、優しく抱きしめてくれるようだった。
 しかし、前述のとおり泳ぎに覚えのないわたしは、どれだけ優しかろうとこの腕から這い出す術を持たない。徐々に沈んでゆく体は光からどんどん離れていって、海中を優雅に泳ぐ原海アベラントたちをぼんやりと眺めるくらいしかできることがなかった。
 
 そして、ついに「そのとき」はやってくる。深海に近づいたわたしの体は突如として軋むような苦痛を覚え、声にならない呻き声を絞り出す羽目となる。
 全身を握りつぶすような圧迫感。それはわたしから簡単に呼吸の自由を奪い、とうとう視界は真っ暗に沈み、意識を手放すくらいしか、自由は残されていなかった。
「終わり」を迎える直前、わたしの耳に再び誰かの声が届いた気がした。何も見えないような真っ暗闇のなか、わたしは確かに「それ」を見たのだ。
 霞んだ視界の真ん中に映ったのは、梯子のような光の隙間を掻い潜るように泳ぐ、雄大な鯨のシルエット。
 その影がどこか笑っているように見えたのは――きっと、ただの気のせいだろう。

 
2024/07/15