君ってやつは(天)

「今日、楽とケンカした」
 ぽつり。まるで独り言のようにこぼされたそのひと言は、どこか拗ねた幼子のような、あどけない響きを持っていた。
 小さく引かれた服の裾に従ってゆっくり振り返ってみると、そこには限りなく無表情、けれどどこか惑うような表情の天ちゃんがいた。その惑いはどこから来るのか、先ほどこぼしたケンカからなのか、それともこうして誰かに愚痴を吐くことへの気恥ずかしさなのか、わからないけれど。何があったの、と殊更優しく訊ねれば、天ちゃんは俯きがちに、目を逸らしながら言葉を次いだ。
「別に、いつも通りの言い合いだったんだけど」
「うん」
「途中で楽の顔色が変わったから、怒らせたのかなって思っちゃって」
「……うん」
「でもすぐに龍が仲裁に入ってくれたから、大事にはならずに済んだ」
 だから、よかったんだ。そう締めくくった天ちゃんは、どこかバツが悪そうな、落ち着かなそうな様子で視線をさ迷わせていた。リビングのど真ん中で立ち尽くす私たちは、きっと第三者から見ればとても滑稽に映るのだろう。けれど天ちゃんはもちろん私にとってもそんなことは微塵もなくて、ただひたすらに、珍しくどもりながらも「何か」を伝えようとするこの子が、私にはひどく愛おしく見えた。
「謝りたいの?」
「……わからない。けど、少しだけ落ち着かない」
「そっかぁー……じゃ、八乙女くんと十くんに、何かお詫びの品でも贈ってみたら?」
「お詫び?」
「うまくいくかはわかんないけど、そしたら天ちゃんの気分はちょっとすっきりするかもよ。ま、結局自己満になっちゃうけどね」
 よしよし、と両手で頬を包み込むと、天ちゃんは満更でもなさそうに静かに目を伏せた。影を落とすまつ毛が麗しくて、思わず変な気を起こしそうになったのを必死に抑える。
 私が不自然に息をつめたのが伝わったのだろうか、天ちゃんは再び瞳を開いて私を見た。しかしその目つきは日頃みせる「九条天」のものではなく、迷子になった子供のような、そう、まるで――
「……ケーキ」
「はい!?」
「この前、食べたそうに看板見てた。龍も賛同してたから、喜ぶかも」
「あ、あぁー! なるほどね!?」
 隠し切れてない動揺を誤魔化すため、身振り手振りを大げさにして彼の言葉へ反応を返す。自然と離れた手のひらをどこか名残惜しそうに見ていたのは、きっと気のせいではないのだろう。2人きりという事実がこのときばかりは憎かった。
「えっと、えーっとぉ……そうだ! ケーキ屋さんね!」
「なに?」
「良い店知ってるんだ、きっと天ちゃんも気にいってくれると思うよ! お金は私が出してあげるから買っておいで、はじめてのおつかい的な?」
「……子供扱いしないでよ」
 つんとした声色に、いつもの「九条天」が帰ってきたことをはかりとる。ここまで言えば当然かと思いつつも、こうでもしなければ耐えられそうになかった我が身を呪った。
 ――今しがたまでここに居たのは、誰も知らない「七瀬天」の姿だったのではないだろうか。TRIGGERも、七瀬陸も、下手をすると彼らの両親ですら知り得ない、遠くへ葬り去ってしまった小さなシコリのようなもの。病弱な弟に尽くし、親に負担をかけまいと自己を犠牲にしてきた結果、きっと本人ですら忘れてしまった幼子の片鱗。声をあげて泣くことも出来ず、ただそこで膝を抱えることしか叶わないまま、自らを閉じ込めているのだとしたら、私は……
「で、真さんは何がいいの」
「え!? あ、フルーツタルト! ――って、あれ、ん!?」
「自分たちの分だけ買うほど薄情じゃないよ」
 じゃ、行ってきます。
 驚くほど手早く準備を済ませた天ちゃんは、私が財布を出すより先に出掛けてしまった。いや、お金なら戻ってきてから渡せばいいのだけれども、あの子はまあ、本当に。
「切り替えの早いこと早いこと……さすがですなぁ」
 その、強く気高い「九条天」の奥にひそむ深淵を思い、深く長いため息が漏れたのだった。