むすびの思い出

「重雲、純陽の体について考え方が変わったってほんと?」

 桃琳がそう問いかけてきたのは、両国――否、三国詩歌握手歓談会が終わってから、三日ほど経った頃のことだった。
 件の大会には桃琳も共に参加していたのだが、よりによって最終日に体調を崩してしまったのだ。無理に参加して周囲に迷惑をかけるのもよくないと考えた結果、最終日は不参加となり、フィンチおじいさんとカリロエーの邂逅を見届けることができなかった。ゆえに桃琳は彼らの間に何があったのかも、ぼくの心境の変化についても何も知らないのである。

「ど……っ、どうして、そんなふうに?」
「行秋に聞いたんだ。この間の詩歌大会から、重雲の雰囲気が少し変わったような気がするって」

 桃色の双眸はまっすぐにぼくのことを見つめており、その所作からは隠された意図や思惑のたぐいなどはいっさい感じられなかった。

「ええと……その。まあ、桃琳の言うとおり、ぼくはこの体質に関して、少しだけ前向きに考えられるようにはなったが――」
 
 ……我ながら、動揺を隠すのが下手すぎる。
 あまりの体たらくに、このままでは一人前の方士として活動するのもひと苦労なのではないか、と不釣り合いな自己嫌悪まで湧き上がってくる始末だ。ぼくは顔を覆いたくなるのを抑えながら、桃琳の透き通った瞳を見つめていた。

(様子がおかしいのは、桃琳だって同じだろうに――)

 本人に自覚があるかどうかはさておき、少なくともぼくの目にはそう映る。きっかけは他でもない、先日の焼き芋事件――ぼくが一人でそう呼んでいる――だ。
 焼き芋事件以降の桃琳は、ぼくがこの気持ちを伝えようとすると決まってそれを遮ってくるのだ。否、もちろん外的要因だって多数あるのだが、それにしたってさすがのぼくでも違和感をおぼえるほどのタイミングと頻度なのである。
 あの日に失敗して以来、めげずにぼくは何度も桃琳に想いを返すための機会をつくった。二人きりになってみたり、真正面から伝えようとしてみたり、それこそ先日の詩歌大会のおりには、柄にもなく詩歌に載せてみようとしてみたり――けれど桃琳の意図するところなのか否か、それとも運命というやつがぼくにひどく冷たく接しているのか、何かしらの事象でそれらはすべて遮られてしまうのである。……詩歌大会に関しては、決意よりも羞恥心が勝ってしまっただけ、とも言うが。
 そのうえ桃琳自身も毎度とぼけたような振る舞いばかりで、ぼくの言葉を聞こうとしない。もちろん話を無視されたり無理に話を逸らされたり、というような露骨な手段でこそないものの、その対応はまるで、ともするとぼくの想いを無下にしているようにも見えてしまう。こんなふうに思っていてはいけないと思いながらも、それでもやはり、どうしてもままならない気持ちばかりを抱えてしまうのだ。
 ゆえに、近頃に受けている仕打ちを思えば彼女の質問に答えてやる義理もないように思えるのだが――カリロエーとの約束もあるし――見慣れた桃色にじっと見つめられると、なぜだかそうもいかなくなる。まるで自分の腹の奥にでも手を突っ込まれたような、口からすべてを引きずり出されるがごとく、苦しくも恍惚とした心地にさせられるのだ。

「ふぅん……それってもしかして、この間の詩歌歓談会で何かあったから?」
「え……ッ、と、それは――」

 ……こういうとき、行秋ならばもっとうまく追求をいなしてしまえるのだろうが、不器用なぼくにはどんなふうにすればかわせるのかがわからない。他人との熱心な交流を避けてきたからというのもあるが、ぼくにとっての秘密は「秘密」なんて大層なものじゃなく、気づけば行秋という親友を筆頭に、覆い隠したものはすべて丁寧に暴かれてしまうのが常だったからだ。
 正直、ひどく困ってしまった。ゆっくりとにじり寄ってくる桃琳の関心は、果たしてどんなふうにすればすっかりあしらってしまえるのだろう――ぼくは近づいてくる桃琳からさっと顔を背け、どうにか諦めてくれないかと祈りながら目を閉じる。

「……重雲は、本当にわかりやすいね」

 すると、ぼくの行動に何かしらを感じたのか、桃琳はしみじみとそう呟いて、ぼくからすっと距離を取った。まばたきを繰り返しながらその行動を視線で辿ると、桃琳は観念したように地面へと目を向けながら、肩をすくめて微笑んでいる。

「どうしても、言えないことがあるんだ」
「す……すまない。隠しごとをしたいわけではないんだが」
「いいよ。重雲だって男の子だもん、わたしに言えないことのひとつやふたつ、あってもおかしくないし――」
「ち、ちがう! そういうことではなくて……っ!」

 慌てふためくぼくを見て、桃琳はいつもどおりけらけらと笑った。その笑顔はいつもと変わらぬ快活な様子で、戸惑いの裏面に安堵をおぼえる。
 近頃の仕打ちはさておき、詩歌大会のあいだどことなく沈んでいるように見えていたのは、もしかすると杞憂だったのだろうか――そんなぼくの考えを裏づけるように桃琳はくるくると回りながら前を歩き、鼻歌まで歌いはじめた。
 ぽってりとしたくちびるからこぼれる旋律は聞いたことのない異国のもののようで、近頃の変化も相まってか、まるで桃琳がひどく遠いところに行ってしまったような、一種の寂寞まで感じられた。そうした感傷的な考えは芋づる式に淋しさを連れてきて、ぼくの視線をほんの少しだけ下へと向かせる。
 こうして共に過ごす日々は、当たり前のものなんかじゃない。桃琳の体調に関してもそうだが、それ以前に、彼女はいつまでこのぼくに気持ちを向けていてくれるのだろう。
 彼女が当たり前のように飛びついてくるのはただの甘えで、もしかするといつかその「だいすき」を聞かせてくれることもなくなり、ぼくではない誰かの隣に並ぶような未来だって、それこそ当たり前のようにありえる話なのだ。
 健康的に生活できるからこそ、未来は無数に分岐していく。
 桃琳の隣にいるのがぼくではない未来。他の誰かと仲睦まじく過ごし、楽しそうに笑う桃琳――そんなもの、ぼくはちっとも見たくない。
 そんな悲観的な考えがよぎった途端、ちくりと胸が痛んだ気がした。ちいさく音を立てたそれはじくじくとぼくの心臓を刺激して、自然と両足の動きを鈍くさせる。
 桃琳がぼくの変化に気づいたのは、詰まりそうな深呼吸を幾度か繰り返していた頃だった。

「……重雲? どうしたの?」

 まんまるの桃色が再び近づいてくる。優しくもあれば責めるようでもあるそれが今だけは少し痛痒くて、ぼくはそれを見つめ返すことができなかった。竹林の隙間を縫った風が、ぼくたちの距離を慰めるようにさらさらと通り抜ける。
 どうせ遮られてしまうかもしれないが、今度の疑問は、ちゃんと答えてやらなければ。わずかな諦念を喉の奥に潜ませながら、ぼくはおずおずと口を開く。どうせ隠しても意味がないのなら、いっそぶちまけてしまったほうがマシだ。

「嫌……だなと、思ってしまったんだ」
「? 何がいやなの?」

 そんな些細なやり取りが、ぼくたちの間にぽつぽつと落ちる。

「お前がどこかへ行ってしまうこと。……なんとなく、近頃の桃琳は今までよりも遠く感じてしまうことが多いから」
「そう、かなあ?」
「そうだ。……今のぼくにとって、お前が近くにいるのはもはや当たり前のことだが――いつかは、それも変わってしまうかもしれない。お前は簡単にぼくの目の前からいなくなってしまうんだろうなと思うと、少し、淋しくなってしまって」

 急にすまない、とぼくが謝ると、桃琳は意外にもきょとんとした顔をして、すぐに考え込むような素振りを見せた。いつもより重たく、確かめるような口調で紡がれる彼女の言葉はひどく珍重なように思える。
「もし――」そう言いはじめた桃琳は、初めて見るような不安げな面持ちをしている。

「もしもわたしが、いなくなったとして……重雲は、わたしのことを忘れないでくれる?」

 縁起でもないことを言うな――衝動的に撥ねつけてしまいそうになったが、それを阻むのはいつになく真剣な桃琳の表情だった。不安そうな瞳はそのままにしながらも、どこか鬼気迫るような、まるで人生の分水嶺にでも立っているかのような独特の気迫がある。いま目の前にいるのはぼくのよく知る「桃琳」ではなく一人の武人なのではないかと……そんなことを思わせる、ある種の間合いがそこにあった。
 しかし、ぼくには答えられなかった。それに答えてしまえば――もしくは、少しでも返答を間違えてしまえば、そのときにはまるで取り返しのつかない終わりを迎えてしまうのではないかという、無視のできない予感と恐怖が、すぐそこにまで迫っていたからだ。
 
 ぼくが言い淀んでいると、やがて桃琳の張りつめた空気がすっと和らぐのを感じた。緩んだ空気感はいつもどおりの桃琳らしく柔和なものになるかと思われたが、否、ぼくの期待に反してそれが訪れることはなく、目の前の彼女は普段とは打って変わった様相をしているように感じられる。
 まるで元素力の切れたからくりのような生気のなさ――ともするとかつて、初めて彼女を見たときの光景がよぎるような大気の震えに、ぼくは彷徨っていた視線を桃琳のほうへと戻す。
 吸い寄せられたぼくの両目が捉えたのは、憑き物が落ちたかのように穏やかに微笑む桃琳と――そんな彼女が壊れたように頽れる、走馬灯じみた景色だった。

 
 2024/03/17