さいごの鎹

 冷たい風が吹きすさぶなか、ぼんやりと一人佇んでいる。ぼくの目の前にあるのは、誰の仲間にも入れてもらえなかった人間が丁重に眠る、ひどく小さくて粗末な山だ。
 この山の下には、ぼくが恋い慕ってやまなかった存在が眠っているが――しかし、これを暴くなんて不信心なことはとてもじゃないができない。人の道理に背くようなことは極力したくないし、彼女だってそれを望んではいないだろう。ただ、ほんの少しの土くれを隔てた向こう側に彼女がいるのかと思うと、この愚かな手は時おりそこに伸びてしまいそうになり、指先が土に触れた感触で我にかえる――そんなことばかりを繰り返している。
 別れはあまりにも突然すぎて、心の準備というものをぼくに許してはくれなかった。涙を流す暇もないまま時間は驚くほどあっけなく進み、彼女がぼくの隣にいた思い出ごと、すっかり消え失せてしまったような気分だ。

(気を抜くとここに足を運んでしまう――しかし、こんな辺鄙なところなんて誰も来ないだろうから、一人になるにはちょうどいい。万が一妖魔がここを荒らしたりしたら事だしな)

 言い訳じみた理由ばかりを並べながら、眼下の土に交じる根の数を数えた。
 
 先日、ぼくはしばらくの休みを言い渡された。ここ最近の疲れが出てきているのか否か、どうやら近頃のぼくは心ここにあらずといったふうらしく、何をするにも身が入らなそうだからということだ。
 ぼくとしては、鍛錬なり何なり、何かしらの用事があったほうが余計なことを考えずに済むのでありがたいのだが――悲しいかな、あまり集中できないせいで効率は落ちるばかりだし、そんな鍛錬に意味はない。きっと周りにも迷惑をかけているのだろうと思い至り、家族の気遣いは素直に受け取ることにした。
 昨日には行秋と香菱がぼくの様子を見に来てくれた。深くは追求しない二人の優しさにいささか胸が軋んだが、談笑がてら二人をここに連れてくると、沈痛な面持ちで静かに手を合わせてくれた。
 優しい友人たちを見ながら思う――ぼくは、本当に人に恵まれているのだなと。多くを語らず、無理に騒ぎ立てることもせず、ただ静かに寄り添ってくれた友人たち。彼らの存在はぼくの人生における宝と言って相違ないものであるだろう。
 しかし、そうプラスに考えてはみるものの、突如として開いたこの穴を埋めるには何もかもが足りないと感じてしまう。時間も、覚悟も、安らぎも――ぼくの真ん中にあったはずの大きな塊はその姿をすっかり消して、それよりも大きな空虚と痛みを遺していった。
 ゆえにぼくは、今もなお耐えがたい痛みのなかでうずくまりながら、うず高く盛られた土の山を虚ろな気持ちで眺めることしかできずにいる。

 あの日、桃琳はぼくの目の前で倒れ伏した。
 まるでからくりの部品がズレてしまったかのような、ひどく突然で、あっけない終わり――地面に倒れ込んだままいっさいの反応を見せない桃琳を前に、ひどく動転したことを覚えている。
 それこそ、ぼくが間違えてしまったからこんなことになったのではないか。そうした煩慮と怯えを胸に、力ない桃琳のもとへ駆け寄った。
 ぐったりとした桃琳の体を抱え、無我夢中で璃月港へと走った。純陽の体なんて気にする余裕もなく駆け抜ける傍ら、抱きかかえた桃琳の体が少しずつ冷たくなっていく、その末恐ろしさは今でも脳裏にこびりついている。ゆっくりと色を失っていった「神の目」の様相も、この網膜に焼きついてとうとう離れなくなった。
 まるで指の隙間からこぼれ落ちる砂粒のように、桃琳という存在がぼくの目の前からみるみるうちに消えていく。そんな実感を、視覚からも触覚からも、まざまざと見せつけられた帰路だった。
 そのあとのことは――正直、よく覚えていない。ただ、恐ろしかったという感情だけが、記憶として残っている。
 どうしてこんなことになったんだ、と言葉にしたって、答えてくれる人はいない。たとえ仙人様であろうと、ぼくの疑問に対する完全な答えを持ちあわせてはいないだろう。
 桃琳はもういない。この世のどこからも消えてしまって、もう二度と、ぼくの隣に立ってくれることはない。笑うことも、その済んだ桃色の双眸を見せることもない――恐れていた別れは想像より何倍も早く、そして唐突に訪れた。

(……ぼくは、あまりにも迂闊だった。どうして気づいてやれなかったんだろう)

 桃琳には騙されてばかりだ。すぐにでも終わりを迎えてしまうくらい体が弱っていたのなら、どうしてそれを教えてくれなかったのだろう。ぼくはそんなにも頼りなかったのか――ぼくは、それほどの子供でしかなかったのだろうか。
 ぼくにたいしての「頼る」という選択肢は、桃琳のなかには存在していなかったのか。
 詩歌大会の最終日に体調を崩したときは、「前回の采風で動きまわったのがよくなかったのかも」としか言わなかった。笑顔も物言いもいつもどおりで、それまではひどく元気だったから。なんとなく沈んでいた様子も、桃琳だって落ち込むことくらいはあるよな、と軽く考えてしまっていた。
 蓄積していた痛みや膿を、もっと重く見てやれていたら。そうすれば今頃、桃琳は――

 今、ぼくの手のなかには主をなくした「神の目」がある。この強固な塊はあれ以来元素力を蓄えることもなく、ずっと沈黙を貫いたままだ。
 彼女の遺品はすべてぼくが引き取った。孤児であった桃琳には親類縁者もいないし、養父もおそらく帰ってはこないだろう。仮に千岩軍から解放されたとして、あの人が桃琳の死を悼むようには思えないし――おおかた、命からがらといった様子で璃月を飛び出し、名を変えてのうのうと生き延びるのだろう。
 廃棄するかどうかで周囲を悩ませていた桃琳の遺品を、気を利かせた両親が引き取って、すべてぼくに譲ってくれた。そうしてぼくは、彼女の荷物のいっさいを請け負ったのだった。
 桃琳の荷物は驚くほど少なく、武器や家具の部類を抜けばカバンひとつに収まる程度のものしか残されてはいなかった。それが養父の意図なのか桃琳本人が望んだものなのかを確かめる術はないが、なんとなく、両方だったのではないかと推察する。……本当に、なんとなくでしかないが。
 ――わからないことだらけだ。桃琳のことを思い出そうとすると、ぼくのなかに浮かぶのは彼女の笑顔ばかり。笑っていられるような半生ではなかったはずなのに、どうして彼女はあんなにも朗らかに笑っていたのだろう?
 ぼくと一緒にいるだけで幸せだったという言葉を、ぼくは信じてもいいのだろうか。答えを教えてくれる人は、やはりどこにも存在しない。
 
 笑顔の次に浮かんでくるのは痛みと後悔だ。結局ぼくは、ちっとも彼女を助けてやれなかった。養父から引き離したことくらいで満足感を得て、その実、本当の意味で彼女を救ってやることなんてできなかったのだ。
 彼女のことを救えていたなら、今も桃琳はぼくの隣で「だいすきだよ」と笑ってくれていたはずなんだ。
 もっとちゃんと話をすればよかった。自分の気持ちだけじゃなく、純陽の体についてとか、桃琳の体質についてとか――それこそ、降魔大聖にお会いする機会をもう少しひねり出すことができれば。詩歌大会のおりに桃琳を気にしているような素振りをしていたから、再び相まみえることができれば何か助言をいただけたかもしれない。
 あとは……そう、鍾離先生に相談することだってできたはずだ。桃琳がそれを望んでいないからと先延ばしにしてないで、今すぐできることなんて、本当は無数にあったんだ。
 悔やんでも悔やみきれないことばかりが脳裏に浮かんでは消える。痛みも、苦しみも、それらすべてが後悔へと繋がってゆき、いっさいの道が後悔へと通じているような錯覚すらおぼえる。
 後悔ばかりが刃のごとく突き刺さって、もう二度と抜けないのではないか、という疑惑すら抱かせた。これこそが彼女の遺した証で、まるで痛みによってぼくたちをつないでいるかのようだ。
 結局、ぼくは何にもできていない。想い慕う一人の人間を救ってやることもできないで、何が「一人前の方士になる」だ――

 
 ぐったりとうなだれていたおり、ふと、何かの落ちる気配がした。うろうろと視線を彷徨わせると、ぼくの足元に紙切れのようなものが一枚落ちているのが見える。
 小さく折りたたまれたそれは、いったいどこからやってきたのか。仔細はいっさい不明だが、ぼくはまるで誘われるようにその紙切れを開いた。

「……、これは――!?」

 どうしてこれが、こんなところに。紙切れに遺されたのは見慣れた字で、ほんの少し乱れた筆跡に、送り主の感情をわずかながら読み取れた気がした。
 おそらく、この紙切れの送り主は桃琳に間違いない。ぼくが彼女の筆跡を見間違うはずがないからだ。
 どうして今更、という当たり前の疑問を一瞬で捨て去って、ぼくは目の前の踊った字に夢中になった。
 内容から察するに、これは先日の詩歌大会のおりに書いたものなのだろう。情感たっぷりのそれはぼくの胸を強く揺さぶって、じんわりと視界を滲ませる。

「……ああ、そうだな。お前が贈ってくれたのなら、ぼくも、返事を書かなければ」

 目元を拭って、再び紙切れに――桃琳が遺してくれた、無二の詩歌に向き直る。宝物のごとく輝いて見える一字一字をじっくりと目で追って、それらに遺された彼女の意志を汲み取ろうと努めた。
 まるで、この詩こそがぼくらをつなぐ鎹であるかのように。ぼくの意識は、些細かつ乱れた一篇にひどく夢中になった。

 
2024/03/26